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終活日記
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世の中のこと自分のこと、過去のこと今のこと、気ままに思いつくままに書いてみる。 
この年になれば断捨離で何もかも捨ててしまいたくもなるが、思い出やこれまでの人生まで捨ててしまいたくはない!
いつか誰かが読んでくれるかも知れない。一つ一つ真面目に書いて行こう。
時代の波に乗って幸せな人生を築かせて頂いたが、このまま何もせずに人生の終焉を迎えたくはない。
今の世の中の価値観というか、大きくズレてしまっているように思えてならない。大切なものは何かを見失っては価値がない。
人それぞれだが、自分の考えや想いを天の声を聞きながら、世の人に発信してみるのも良いのではないか?

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忘れ得ぬ絶景・・・オーストリアC

2018/07/16 12:18
≪チロルの村々・山々≫
 温泉地のバードイシュルに2泊して、今日はチロルの村々のある山岳道路ひた走り、オーストリア最高峰のグロ-スクロックナ山に向かう。
 雄大なアルプスの山並みが迫るジグザグの山岳道路、チロルの村にはジャンプ台が見える。 インスブルック冬季オリンピックのジャンプはこの辺で行われたのであろうか?
 どんどん高度を上げてゆくと大きな滝、雪山や雪渓がまじかに見えてくる。  今日は猛暑なのに先週は初雪が降るほど寒い日であったと言う。
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≪グロースクロックナー山≫
 前方にグロースクロックナー山(オーストリ最高峰3798m)が見えてくる。 駐車場から20分ほど登り、氷河まで降りるケーブルカーで氷河に降り立つ。 
 前方には富士山とほぼ同じ高さの真っ白なグロースクロックナー山が聳え立つ。
道路わきの草原に小さなエーデルワイスがあちこちに咲いていた。
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≪ハイリゲンブルート≫
グロースクロックナー山がよく見渡せる近くの古い村に教会がある。 山に憧れたアルピニスト達がこの村から出発したのであろう、墓地にはアルピニスト達がエーデルワイスなどの花に囲まれて静かに眠っていた。
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忘れ得ぬ絶景・・・オーストリアB

2018/07/12 11:52
≪ザルツカンマーグートA≫
今日はハイキング、二つの山を歩く。
SL列車のシャーフベルク登山鉄道にてシャーフベルク山頂(783m)目指して野山やトンネルをくぐりぬける。
シャーフベルク山頂散策するも少し寒いぐらいでウインドウブレーカを羽織る。
眼下にヴォルフガング湖など360°のパノラマ。
高山植物の花々があちこちに咲き乱れている。 サウンド・オブ・ミュージックの映画の舞台はこの辺だったろうか? 
かわいい子供たちがドレミの歌を一生懸命歌っていた姿が目に浮かぶ。

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また列車に乗って下山し、ヴォルフガング湖散策・遊覧後、 レストラン「白馬亭」でマス料理の昼食を頂く。
午後から再びゴンドラに乗って、ツバルホルン山(1522m)へ。 そこから尾根の山道を素晴らしい景色を見ながらのパノラマハイクを楽しむ。 
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忘れ得ぬ絶景・・・オーストリアA

2018/07/10 10:37
≪ザルツカンマーグート@≫
オーストリアと言えばウイーン。 ザルツカンマーグートといっても良く判らないでしょう。 
映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となったところと言えば思い出す人もいるかと思いますが、ちょっと紹介しておきましょう。
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ザルツブルク市の東、アルプスの峰々に抱かれるように、扇状に展開する一帯が、オーストリアの景勝地を代表するザルツカンマーグートです。
標高500〜800メートルの高地で、大小数多くの湖水が点在し、背後には2000メートル級の高山が連なります。映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台として世界に知られていますが、世界遺産のハルシュタットダッハシュタイン山塊があります。
ハルシュタット湖の湖畔に家々が並び立つ景観は、世界でも最も美しい湖畔の町の一つとして知られています
世界最古の岩塩坑あり、古くから岩塩によって繁栄してきたそうです。 お土産にお塩や石鹸を買うと麻袋に綺麗に包んでくれました。
下の写真は、ヴォルフガング湖ハルシュタット湖その湖に映える湖畔の教会です。
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 (つづく)




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忘れ得ぬ思い出・・・オーストリア@

2018/07/08 14:34
2007年7月、この年は夫婦共々体調に優れ、海外での山歩きに挑戦、盛り沢山のハイキングのあるオーストリアの【ザルツカンマーグート・チロル・ドロミテの旅10日間】の旅を楽しむことが出来ました。
今回は絶景というより、「よく歩き、よく食べて、よく寝る」という、今までのあくせく働くばかりの生活から抜け出すことにしました。
成田からウイーンまでフライト時間12時間、そこから100人乗りの双発プロペラ機に乗り換え1時間足らずでザルツブルグに到着します。
≪ザルツブルグ≫
ザルツブルグは中世の古い街、旧市街には、中世の趣を存分に残すいくつもの小路があります。最も代表的なゲトライデ通りは、15〜18世紀の商家が並ぶ歩行者専用地区で、各建物には鉄製の商標や看板が歴史を感じさせ、通りは魅力的に飾られています。 また、カフェ、ギャラリー、ブティック、広場には青空市場もあり、賑わっています。
ザルツブルクはモーツアルトの生れた街、モーツアルトの生家内には生涯の遺品や遺作など展示されていますが、撮影禁止のため残念ながら写真は建物の外観のみです。 また、モーツアルトの街らしく1年を通じて、クラッシックのみならず、様々な分野の音楽コンサートが開かれており、それを楽しみに沢山の人が訪れるそうです。 

アルプスの山並みを背景に、小高い丘の上に立つホーエンザルツブルク城は、ザルツブルクのシンボルとも言えます。 一番高い所は、標高508mの位置にあり、町からはケーブルカーで登ることが出来、お城からはザルツブルグ市街を一望できます。
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映画「サウンド・オブ・ミュージック」にも登場したミラベル城の庭からは、ザルツァッハ川を挟んでホーエンザルツブルク城と大聖堂の美しい姿が見られます。
また、庭園内には花や彫刻のアートがふんだんにあり、それらを見ながら散策を楽しめます。

ザルツブルグ旧市街 (トリップアドバイザー提供)
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懐かしい風景がこの「サウンド・オブ・ミュージック」の歌に出てきて感動です。

      歌はこちらです。⇒「ドレミの歌」
 
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忘れ得ぬ思い出・・・ナイアガラ

2018/07/02 09:17
順序が逆になってしまいましたが、カナディアンロッキーに行く前に、日本からはトロントに直行し、ナイアガラに行ってきました。 ナイアガラは観光の定番になっていますが、ゆっくり2泊して、国境を越えてアメリカ側にも渡って見たいと思います。
午前中は定番の「霧の乙女号」に乗船、滝のしぶきに濡れながら豪快なアドベンチャー体験、滝の裏側では豪快な滝の流れに圧倒される。 滝の上流に行き、花時計やクィーンビクトリア公園を散策する。
こちら側に見えるのがカナダ滝、対岸に見えるのがアメリカ滝だ。 いずれもスケールが大きく豪快だ。
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ナイアガラ川に架かるレインボーブリッジを歩いて渡りアメリカ側へ。 すると検問あり、入国審査を受ける。 入国税なのか知らないが一人1$必要、現金の持ち合わせなく困っていたら、クレジット払いでも良いとのこと。 無事通関出来た。
公園内を散歩しながら、滝の下の方まで行けそうなので降りてみる。 水しぶきを浴びながらすごい勢いで落ちて来る滝の直ぐそばまで来るとスリル満点だ。
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夜になるとカナダ滝がライトアップされる。 ちょうどレストランで食事をしながら楽しむことが出来た。 空には満月のお月様が出たかと思いきや、なんと空に浮かぶバルーンであった。 上空から滝を見下ろせるようになっているらしい。
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日本からトロントまでは15時間の長旅だ。 トロントからナイアガラフォールズまでバスで約2時間。 話しの種に一度は行って見るのも良いですね。 
カナディアンロッキー含めて10日間の旅でしたが、個人旅行に近いフリープランで旅行社にセッティングしてもらったので団体旅行とは違う自由気ままな旅を満喫してきました。     (カナダ編 おわり)

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忘れ得ぬ思い出・・・バンフ・カナダB

2018/07/01 05:09
今日は7月1日、カナダの独立記念日、カナダデーです。 たまたまこのバンフの田舎町でそのお祝いのひとコマを見せて頂くことになりました。 
バンクーバーやトロントなどの大都会では音楽やダンス、花火大会と町中はお祭り騒ぎで賑やかになるそうですが、ここでは整然としたパレードが延々と行われ、昔懐かしい騎馬隊や兵隊さんの行進が続きます。 200年以上も続いた植民地からの独立を成し遂げた喜びが感じ取られます。
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アメリカ大陸には早くからイギリスのピューリタン(清教徒)が新天地を求めてやってきました。 南側のアメリカでは1775年に独立戦争が始まり、戦闘が終わったのが1781年ですが、記念日は1776年7月4日です。 
その独立戦争でイギリスの王党派は逃げ場を求めて北部のカナダに逃げ込みました。 それ故、カナダはそのままイギリスの植民地となり、自治権を獲得したのは90年後の1867年7月1日でこの日を独立記念日としています。
実際にはカナダ憲法が出来て完全に独立したのは、何と1982年です。 そういう意味でまだ新しい国家だと言えますが、アメリカやイギリスの強い影響を受けながらもしっかりとした独自路線の政策は日本も見習うべきところです。 国民こぞって祝える建国記念日があることは実に羨ましい限りです。
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忘れ得ぬ絶景・・・バンフ・カナダA

2018/06/30 08:36
バンフでの3日間は自由行動。 これまで意欲的に歩き回っていたので家内は疲れたようだ。 今日はホテルでのんびり過ごすという。 小生はサイクリングでも出来ればと思いシャトルバスで街に出かける。
ガイドブックでレンタサイクルの店を探すためバンブの裏道を1軒1軒確認しながら1軒の店を見つけた。 1日22〜36$でクレジットカードが保証金代わりとなる。
≪ミネワンカ湖≫
バンフのメインストリートを北東に進み、鉄道のガード下をくぐり、1時間ほどでミネワンカ湖に着いた。 
観光客はほとんどなく地元の人が湖のメンテをやっているだけであった。 山々に囲まれた静かな湖だ。 広々とした湖面は青く、しばらく時のたつのも忘れて眺めていた。
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湖から流れる川に沿って下ると自然のままの公園があり一組の親子がキャンプをしていたので話しかけてみた。 週末にはいつも子供たちを連れてここに来るとのこと。 ここは特にキャンプ場ではないがいつでも自由にテントを張って大自然の中で子供たちを遊ばせることが出来るという。
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≪カスケード・マウンテン≫
帰り道、目の前に荒々しい山肌をしたカスケード・マウンテン(2998m)が現れた。 こちらからは全くの独立峰に見える。 その前には針葉樹林帯が広がり、ワタスゲの花が野原いっぱい一面に咲いている。 

無事街に帰って来た。 山道だったので疲れた。 昼過ぎ街のあとこちで大勢のお客さんが道路端に座り込んで何かを待っているように見えた。 今日の夕方、独立記念日のパレードがあるという。 さっそく、ホテルに電話して家内にも街におりてくるように連絡した。 (つづく)
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忘れ得ぬ思い出・・・バンフ・カナダ@

2018/06/29 17:22
4日間楽しんだ忘れ得ぬ絶景の余韻を残しながら、今日はカナディアンロッキー縦断の旅最後のバンフに入る。
ここではのんびり3泊し、バンフの街を散策したり、周辺に広がる大自然を満喫することにする。
バンフはバンフ国立公園の中心地であり、カナディアンロッキーの南の入り口で観光やリゾートで訪れる人が多く、町には沢山のホテルがある。 日本人の観光客の多くは、最も人気があるお城のような「バンフ・スプリングホテル」に泊まる。 我々はそこよりさらに5分程離れたサルファー山近くの静かな「リムロック・リゾート・ホテル」を選ぶ。 
近くに温泉があり、サルファー山へのロープウエイ乗り場まで歩いて行けるところ、さすがに日本人はほとんどいなくて気楽に過ごせる。
地図の南西にサルファー山、その前方にバンフの街が見える。その街を横切ってボー川が蛇行しながら流れている。北東には3000m級のカスケード・マウンテンが見え、さらに東に大きなミネワンカ湖が見える。
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≪サルファー山散策≫
まず、バンフの大自然が見渡せる目の前のサルファー山に昇る。 ホテルの直ぐ近くのロープウェイで一気に2000m地点まで登る。 そこから頂上まで続く散策路がありちょっとしたハイキングが楽しめる。 朝一番に出かけたので山には我々だけでこの360°の絶景を独り占めだ。 
眼下は少し霞んでいて遥か遠くにボーバレーにボー川が蛇行しながらゆったりと流れているのが見える。 思わずカメラを超望遠にして覗いてみる。 我ながら素晴らしい写真が一枚撮れていた。
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画像≪ボー滝からバンフ市街を散策.≫
ホテルの裏から山道を下り、お城のようなバンフ・スプリングホテルの裏を通りボー川に出る。
その目の前に落差のない幅広のボー滝があり、滝沿いの川べりを進むとバンフの街に出る。
お土産屋さんやレストランが立ち並ぶバンフの街をウインドウショッピングしながらお土産を物色す。
カナダ原産100%の天然素材で作られたソープやメープルシロップ、先住民族の雑貨などなど。
帰りは街の中心部からホテルのシャトルバスで送迎してくれるので時間は気にせずのんびり過ごすことが出来た。


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忘れ得ぬ絶景・・・カナディアンロッキーB

2018/06/27 16:13
フェアモント・シャトー・レイク・ルイーズ ホテルで、眼前に広がる絵に描いたような大自然を見ながら至福のひと時を過す。 一泊では物足りないいつまでもここに留まっていたいと後ろ髪を引かれなら次のバンフに向けて出発する。
今日の目玉となる絶景は世界の絶景の一つと言われる“モレーン湖”。 ユネスコの世界遺産にも登録されており、昨日のルイーズ湖とあわせて“カナディアンロッキーの宝石”と呼ばれるほどの、非常に美しい景色が見られます。   ただ、6月を過ぎなければ雪で覆われてここには立ち入ることが出来ないので、訪問時期には注意が必要です。

     ≪モレーンレイクとテン・ピークス≫
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駐車場から丘の上の展望台へ登る。 目の前にテンピークスの名の通り10の峰がそびえ立ち、その前には湖底が見えるほど透き通るような真っ青の湖が広がる。 何時間でも眺めていてもあきない風景である。 旅行案内では「一生に一度は見たい絶景」と紹介されているほどだ。

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忘れ得ぬ絶景・・・カナディアンロッキーA

2018/06/23 09:00
 ジャスパー国立公園で大自然をのんびり満喫し、今日からカナディアンロッキーを南下、コロンビア大氷原を経てレイクルイーズまでのドライブが楽しみです。 
≪コロンビア大氷原≫
 北半球で最大の氷河、北のアサバスカ大氷河から流れ出て7Km、その麓がこのコロンビア大氷河となる。
雪上車に乗って氷河の先端まで行く。 広い氷の大地をしばし散策。 氷河の深いブルーの割れ目は実に神秘的だ。
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≪レイクルイーズ≫
フェアモント・シャトー・レイク・ルイーズ ホテルの前、ビクトリア氷河を正面にして鏡のような湖面が広がる。
ホテル前には赤や黄の色とりどりの花壇、庭から湖畔にかけて広がる緑の芝生、山と湖を背景に絵のように美しい。
このような絶景の前でベンチに座りしばし至福の時を過ごす。 思わずスケッチをし、帰国してからパソコンで仕上げてみました。
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ここはぜひ目の前のフェアモント・シャトー・レイク・ルイーズ ホテルに宿泊してください。 
朝の湖面は波一つ立たず、それこそ鏡のようです。 
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忘れ得ぬ絶景・・・カナディアンロッキー@

2018/06/22 11:05
 カナダはなんと言っても広い国、大迫力の山々、きれいな湖は実に素晴らしい。特にカナディアンロッキーの縦断コースは大自然に恵まれ、忘れえぬ絶景がいつまでも目に浮かぶ。 2004年6月下旬から10日間のカナディアンロッキーの旅、忘れ得ぬ絶景・思い出をご紹介しましょう。
カナダ北西部のエドモントンからカナディアンロッキー最北部のジャスパーまで山間の森林地帯を縫うように走る平坦な道路を延々5時間のドライブ、時々クマが現れたり、初めて見るエルクも見られルンルン気分で楽しくなる。
 ボーベール湖畔のリゾートホテルに2連泊。 ジャスパーはウイスラーやピラミッド・マウンテンなどの高峰がそびえ、時間的な余裕があれば山にでも登りたいところであるが、疲れもあるので今日は近くのマリーンレイク遊覧船でも乗ってでゆっくり過すことにした。
≪マリーンレイク≫
 廻りは岩肌をむき出しにした高い山々に囲まれ、水際には濃い緑の針葉樹が際立ち、その影によって湖面の色が濃いブルーであったり淡いグリーンであったりの静かなきれいな湖でのんびりと過ごす。
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≪アサバスカ氷河&アサバスカ滝≫
 3000m級の山々に囲まれた山間は氷河に包まれる。 全長7kmにおよびその麓にコロンビア大氷河がある。
その氷河が解けてアサバスカ川となり、豊富な雪解け水がアサバスカ滝となって豪快に流れ落ちる。
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≪ボーレイク≫    
 氷河が削り取った岩石が流れ込み、季節によってブルーとなり、グリーンとなり、その色を変える。
夏にはトルコ石に似た乳白色の緑色になるそうだ。 うっとりするほど綺麗な湖だ。画像
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ボーレイク湖畔(?)に原住民直販のお土産屋さんがあり、沢山の毛皮を売っていた。ずいぶん安かったのでシカ(?)の毛皮をリュックに詰めて買ってきた。
 (ジャスパーへの行き方)
普通ならバンクーバーから飛行機でバンフへ、そこからコロンビア大氷原など立ち寄りながら北上するコース。
列車ではVIA鉄道でバンクーバーからジャスパーへ18時間。
ナイヤガラの帰りならトロントから2時間のフライトでエドモントンへ、そこから車で急げば3.5時間、ゆっくり行くなら5時間でジャスパーへ、道路は広く車は少ない。大自然満喫コース。 

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忘れ得ぬ思い出・・・NZ・クライストチャーチ

2018/06/12 10:42
画像クライストチャーチ
忘れ得ぬ思い出のクライストチャーチ。 2011年2月、そんな美しい街が突然の直下型の大地震が襲い掛かり、一瞬にして瓦礫の山になってしまいました。 
街のシンボルだったクライストチャーチ大聖堂も、高さ63mの尖塔は崩壊し、正面のステンドグラスの窓や西側の壁が崩壊し見る影もない姿になってしまいました。 その他の歴史建造物やビルも倒壊し瓦礫の山となってしまいました。 7年経った今でも復旧は遅々として進まず、昔の美しい街が取り戻せていません。 ただ、ハグレー公園や植物園は健在で、路面電車も復旧して徐々に観光客も戻りつつあるということです。 
街のシンボルであった大聖堂も再建をどうするかなかなか結論が出ませんでしたが、なんとか残された建物を生かして修復することが地元の教会で決められたとのこと嬉しく思います。 昔のようにはならなくとも何とか美しい街を早く取り戻して欲しいと願うばかりです。 
こんな状況の中で昔の思い出を語るのも気が引ける思いですが、その面影だけでも記録として残しておきたいと思い、祈る想いを持ってここに書かせていただきました。

クライストチャーチはニュージーランド南島の最大都市、大聖堂をはじめとする歴史的建造物があり、街の3分の1以上が緑豊かなハグレー公園や植物園で、そこからゆったりと街中を蛇行しながら流れるエイボン川、そしてノスタルジックな路面電車トラムが街中を走る、そんな絵に描いたようなロマンチックな街が懐かしい。 
私たちが訪れたのは2003年の11月、晩秋の日本を離れてもう一度春を満喫したいと思い、はるばるニュージーランドを旅することになった。 あの大聖堂の前のテラスでお茶を飲み、エイボン川の流れに沿って散策し、植物園では満開のツツジや花々、なんと緑色の花咲く八重桜を始めて見たことが今でも懐かしく思い出される。
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最後になってしまいましたが、2011年の大地震で日本人の若い青年たち28人がビルの倒壊で犠牲になってしまいました。 特に残念なのはその犠牲となられた方々は将来国際舞台で活躍するために英語教室に留学されていた将来楽しみな人たちでした。 今年も市主催の慰霊祭が行われ、ご遺族の方々が出席されていましたがその無念さはいかばかりか計り知れません。 どうか慰めと力添えがありますようにお祈りいたします。
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忘れ得ぬ絶景・・・NZ ミルフォードサウンド

2018/06/06 13:50
ミルフォードサウンドはタスマン海に面したフィヨルドで、世界遺産に指定されているフィヨルドランド国立公園の中でも、最も有名なフィヨルドです。 大自然の織り成す不思議な景観をじっくり楽しむことが出来ます。 中国桂林の漓江下りで見たような実に幻想的な景観が見られます。
クイーンズタウンからバスでテアナウ(湖)経由、途中残雪の残る険しい山岳地帯を通る。 つい先日土砂崩れがあり観光客が足止めを食ったそうだ。 雨の多いところで我々は曇り空ではあったがラッキーだった。
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船長から直々にサイン入りのチケットをもらって遊覧船に乗り、タスマン海まで入り江を一周する。 
湖のように見えるが長い年月をかけて氷河が山を削り取って出来た入江で、霧でけぶる山々は実に幻想的に見える。 1000m以上の山からは垂直に近い角度で幾筋もの滝が豪快に海に落ちてくる。
 ミルフォードサウンドの手前、テアナウ湖北端からスタートするミルフォード・トラックも有名で「世界一美しい散歩道」といわれています。
全長53km、4泊5日のハイキングは歩くことが好きな人にはお勧め。 ただ、入山制限があり予約がとれるのは1年以上先になるといわれて諦めました。(15年前の話し)
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忘れ得ぬ絶景・・・NZ<ワカティプ湖>

2018/06/04 13:28
ニュージランドはイギリスの統治下にあったため、クィーンズタウンとかクライストチャーチとかイギリス由来の名前がついた街が多くあります。  
クィーンズタウンはクライストチャーチから車で約8時間、飛行機なら1時間弱で来ることが出来ます。
南島の中でも多くの観光客が訪れるクイーンズタウンは湖畔にある美しいリゾートタウン。「女王が住むにふさわしい街」として知られ、街の目の前に広がるワカティプ湖はその名にふさわしい美しさです。画像
ワカティプ湖 は、ここ女王の名ににふさわしい街、クィーンズタウンにあります。 NZで3番目に大きな湖です。 
そのコバルトブルーの美しい湖は両側に雪を抱いた2〜3,000m級のサザ−ンアルプスの山々に囲まれ、ひと際美しく輝いています。 港のある街中心部からリフトに乗って頂上に立てば、ワカティプ湖と湖畔に面するクイーンズタウンの街が一望にして見渡せます。 この絶景を眺めていれば、時の経つのも忘れてしまうほどです。
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画像港からは昔の古い蒸気船が毎日運航しています。 赤く塗られた12メートルの煙突、白い船体、カウリ材を用いたデッキ、そして古い蒸気機関を備えたこの船は、このきれいな風景にぴったりです。 
湖上遊覧クルーズに加えて、対岸で上陸し、高原牧場でBBQやTeaTime、羊の毛刈りショーなどの楽しみもあります。

クィーンズタウンは1862年に金が発見されて以来、ゴールドラッシュによって街は発展しましたが、金脈が尽きてからは人口が激減しました。 現在は人気のリゾート地として様々なアクティビティ、スキーリゾート、サイクリングコース、ハイキングコースなどがあり、多くの観光客がそれぞれのバカンスを楽しんでいます。(若い人には、バンジージャンプやスカイダイビング、ラフティングなどに人気があるようです。)
街はこじんまりとしているため、雄大なサザンアルプスを望みながらゆっくりと散策することができます。街中にはバーやカフェ、レストランや日本料理店もあり、また大型ショッピングセンターもあり、滞在にも便利です。
また、クイーンズタウンは、ここを起点に隣接するミルフォードサウンドやマウントクック、テカポ湖なども日帰りで行ける立地条件でもあり、ニュージーランドを代表する観光リゾート地として南島の中では最も人気のあるエリアです。
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忘れ得ぬ絶景・・・ニュージーランド<マウントクック>

2018/06/02 11:52
ニュージーランド最高峰のマウントクックは、イギリスの航海士キャプテン・クックに由来しますが、先住民族のマオリ語では「アオラキ」(雲を突き抜ける山)とも呼ばれています。 クライストチャーチから車で5時間ぐらいです。
マウントクックの標高は約 3,754m で富士山とほぼ同じぐらいの高さです。 富士山の方が絶景を見られますが、こちらはそれほど感ずるものがありませんでした。 が、左下の写真は妻が撮ったとっておきの写真なんです。 というのはこの辺は雨が多くこんな朝明けのクックを撮れるのは珍しく一瞬の一枚なんです。 前日は雨で諦めて寝坊していたら妻が、‘お父さんお父さん早く起きて!・・・’という奇声に起こされてバルコニに出てみたら前方にマウントクックがくっきり現れているではありませんか。 嬉しさのあまり写真をパチパチ取りましたが私の写真は赤く染まった頂はすでにありませんでした。
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画像マウントクック・ビレッジやその周辺には、初心者でも手軽に楽しめる10分程度の散歩コースから、半日程度のハイキングコースまで様々なルートが整備されています。 自分の足でゆっくり道草しながら自然を満喫しながら歩くのが良さそうです。
フッカーバレーのトレッキングコースは人気のコースで、山の谷間を2つの吊り橋を越えてフッカー湖まで行けば、湖に浮かぶ氷山やフッカー氷河、前方にそびえ立つマウントクックの雄大な景観が楽しめます。 11月だったので河原のあちこちにマウントクックリリーが沢山きれいに咲いていました。

前日、お昼ごろに着いたときは雨が降っており、どうしようかとパンフレットを見ていたら、タスマン氷河を4Wで行くコースがあり、案内に申し込んでみたら、ちょうど日本人のガイドさんが2名空いているとのこと、他の一組を誘って出かけました。 この日本人のガイドさんは日本の夏は北海道の礼文島で、冬になればここマウントクックに来ると云うことです。 一年いっぱいこんないいところで仕事ができるなんてほんとに羨ましい限りです。
タスマン氷河は全長27kmの巨大な「動く大地」と言われています。 少しずつ谷間の岩肌を削り取りながらゆっくりと動いています。 残念なことに地球温暖化のせいで徐々に後退しているそうです。
一面の氷河はほとんど土砂に埋まっており、高所にある氷河とは違ってあまりきれいではありませんが、ところどころ神秘的な色をした大きなクレバスが口を開けています。 実に神秘的でした。

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忘れ得ぬ絶景・・・ニュージーランド <テカポ湖>

2018/05/31 14:11
これまで国内外問わずよく旅に出た。どちらかと言えば自然派で山や湖、海を散策するのが好きだった。
その中で今でも忘れ得ぬ絶景、忘れ得ぬ思い出を思い起こし、ご紹介していきたい。
先ずは、ニュージーランド・テカポ湖です。
テカポ湖はニュージーランド(以下NZ)南島のほぼ中ほどに位置し、クライストチャーチから車で南西の方向へ3時間ほどのところにある。
NZ南島には3000m級の山々が連なるサザンアルプスがあり、常に雪渓や氷河に包まれ、その氷河から流れ出た水がミルキーブルーやエメラルドグリーンの実にきれいな湖となり、あちこちに点在し、日本では見られない素晴らしい景観をなしている。
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 <テカポ湖全景>
テカポ湖の魅力はなんと言ってもその透き通るようなミルキーブルー、ミルクを溶かしたような青みがかった乳白色などいろんな表現が出来るほど微妙に美しい色をした湖だ。
この色は氷河から流れ込んでくるロックフラワーという細かい岩石の粉によると言われている。

画像画像   <ルピナスの花咲くテカポ湖>          <善き羊飼いの教会>
湖畔には色とりどりのルピナスの花が咲き、石造りの【善き羊飼いの教会>】が建っている。 また湖の前方には雪のサザンアルプスの山並みが広がり、その景色はまさに絵に描いたような絶景である。
                                                 訪問日:2003年10月31日(金)
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一年を振り返って

2018/05/23 11:42
ブログを書き始めてちょうど1年がたちました。
事務局から一周年記念の連絡いただき、アクセス件数1300件となったということです。
もともと自分の想いを書ければとの思いで始めたので読んでもらうことは二の次、広告もつけず、読み手のことはあまり気にせずに思うことを書いてきました。
ちょうど一年前に書き始めた記事は「祈りの島 五島列島 巡礼のひとり旅」でした。一年過ぎての記事も同じような「長崎キリシタン巡礼のひとり旅」をまとめ上げたところです。 少しは上手に書けるようになったし、内容にも深みのある内容になって来たのではと自負しています。
その間、嫌なことも多々ありましたが、その思いをぶつけるためにブログに向かい、聖書をひも解き、自分を見直し、また新たに出直す勇気を与えられました。 また、読者の方から「いつも楽しみに読ませていただいていますよ・・・という励ましの言葉もいただき、嬉しい限りです。
これからはそんなに新しいことを体験することは無いだろうが、思い出話ならうんざりするほどいっぱいある。
旅や花の記事にはアクセスする人が多いようだ。 そこでとりわけ「忘れ得ぬ絶景?」なる話を思い出せる範囲で連載で書いてみたい。 ぜひ引き続きご愛読のほどよろしく。 請うご期待!!
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朝ドラ・・・鈴愛ちゃんがんばれ !!

2018/05/02 09:37
朝ドラ「半分、青い。」いよいよ面白くなってきましたね。 いつも楽しみに見ている。
鈴愛ちゃん、耳が悪く、苦労している。 それでも明るく、人の輪の中にグイグイ入っていける素直な女の子。 片耳であってもその辛さはその身になってみないと判らない。
私も年取って段々聞こえにくくなって来て、人の話が聞こえない時がある。 聞こえていても聴きとれないのだ。 アナウンサーの声は小さくても良く聴きとれる。 しかし、お笑いや駄洒落トークなどぼそぼそ、歯切れの悪いしゃべりはよく聞こえない。 聞いている人の様子も見ず平気でボソボソしゃべり続ける人、少しはみんなが聞こえているかぐらい見ながらメリハリつけて話して欲しい。

脱線してしまったが、ドラマは今ちょうど人生の大きな分かれ道、親も安心できる農協への就職を振り切って、ものにならないかも知れない漫画家への道を進もうとしている。 この先、見てのお楽しみだが、この鈴愛の決断は親も周囲の人も誰もわかっていない。
耳の悪い私にはわかるような気がする。 才能がありそうなのは認められたが半信半疑のはず、しかし、漫画は耳が悪くてもその才能を伸ばすことが出来る。 鈴愛に秘められた想いが自然な形で決心させたように思う。
目や耳、あるいは体に障害のある方々、決して落ち込まないでしっかり前を見て歩んで行きましょう !!


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高嶺の花・・・シャクナゲ咲く

2018/04/27 17:29
4月26日のお誕生日の方、おめでとうございます。
また、来る5月6日・8日・10日・15日のお誕生日の花言葉として西洋シャクナゲを送ると良いそうです。
花言葉は「高嶺の花」「威厳」「荘厳」など、大きな花びらでその気品ある美しさは素晴らしいです。
シャクナゲの植生地はヨーロッパ、アジア、北アメリカに分布しますが、ヒマラヤ東部、ネパールから中国の雲南省、四川省、日本でも高山帯から亜高山帯にも広く分布しています。
このようにもともとは高山に多く生息し、人が容易に近寄りがたい所に生えていたので「高嶺の花」と言われたのでしょう。
確かに小生も中国雲南省の4,200mの峠を越えて梅里雪山に行った時、山全体がシャクナゲの花に出会って感動したことがありました。

「高嶺の花」、裏を返せば「近寄りがたい人」となってしまいます。 そうならないためには常に上から目線ではなく、背丈を低くして相手の立場になって付き合うことです。
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我が家の西洋シャクナゲ(種類は忘れました)
我が家のシャクナゲは4月10日頃に日本シャクナゲ、今ちょうど西洋シャクナゲが見事に花開いています。
 



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長崎キリシタン殉教の旅F・・・大浦天主堂&まとめ編

2018/04/09 11:29
今日は長崎で最も有名な大浦天主堂を紹介します。 ここはグラバー園がすぐ近くにあり、観光客が最も多い地域である。 路面電車で大浦天主堂下で下車、ANAホテル前を迂回すると、天守堂に繋がる急な坂道となる。 この道の両側にはお土産屋さんが立ち並び観光客でにぎわっている。 たまたまチャイナの大型客船が港に横付けしたようで中国人の親子であふれかえっていた。 
<大浦天主堂創建の由来>
1597年に長崎の西坂の丘で殉教した26人は、大浦天主堂が創建される3年前の1862年に、ローマ教皇庁によって聖人となった。 このことを禁教下の日本では知る由もなかった。 日本二十六聖人の殉教のニュースは、16世紀からすでに世界中に伝わっていた。 処刑直後の十字架跡には椿などの花が植えられ、キリシタンの信仰を集めた。 しかし禁教が厳しくなるにつれて、殉教地は忘れ去られてしまった。 明治時代になって、プティジャン神父らは殉教地への教会堂建設は日本の潜伏キリシタンを見つけ出すメッセージと考えた。
したがって、大浦天主堂は西坂で殉教した26聖人に捧げられた教会であり、西坂の丘に向かって建てられた。 そして、プチジャン神父の予想通り、300年に渡る厳しい迫害に耐えていた潜伏キリシタンがこの教会を訪れ、神父の前に現れ、信仰告白をするという出来事となった。 
その出来事を参道の直ぐ脇の広場にその信仰告白の記念碑とプチジャン神父の像が建てられている。
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大浦天主堂(九州観光情報より) 
残念ながら天主堂は現在修復中で美しい姿は見られなかったが、世界遺産登録申請中でもあり仕方がない。
大浦天主堂は鋭い尖塔を持つ異国風な建物で「フランス寺」と呼ばれている。 天主堂内部は本格的なリブ・ヴォールト天井で、わが国最初期の洋風建築として、プティジャン神父の設計により1864年に建設された。
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           信徒発見記念の碑 と プチジャン神父像

画像   信徒発見のマリア像(長崎市観光サイトより)
大浦天主堂創建から約1ヶ月後の3月17日、約250年という長い期間、表面は仏教徒を装って潜伏していた浦上の信徒達がやって来た。 そして聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき、 「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と囁いた後、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねた。 プチジャン神父は大喜びで彼らをマリア像の前へ導いたのだという。
世界宗教史上、類まれなこの出来事を見守ったこの御像は以来『信徒発見のマリア像』と呼ばれるようになり、今も向かって祭壇右側に飾られている。 しかし、天主堂の建設並びに神父の存在によって、信徒たちの信仰心が高揚し、信徒であることが露見しても拷問を受けてもそれに屈することなく取締りに抵抗するようになった。 その結果、「浦上四番くずれ」という大規模な摘発が行われ、浦上のキリシタン3000人超が西日本各地に流刑となり、拷問等によって600人が死亡するという大事件が起こってしまった。
画像このような事件が続く中、キリシタンの強い信仰心と海外からの圧力によってようやく明治6年、明治政府はキリシタン禁制を解禁するに至った。 まだ十分とは言えないが日本で初めて信教の自由が得られたのである。

カトリック大浦教会
観光客の増加によって教会のミサに影響するようになったため、天守堂の直ぐ近くに新しく会堂が建設された。
天守堂は観光客でごった返しているが、この会堂は普段は誰も入る人はなく、堂内は清楚で静かに祈れる場所となっている。 日曜日には朝7時からミサが行われると聞き、行ってみようと思ったが朝早くて起きられなかった。
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<まとめ>
「長崎キリシタン巡礼の旅」
、長々と綴ってきましたが、最後までお付き合いありがとうございました。 
皆さんは、長崎をよくご存じのことと思いますが、このようなキリシタンの悲しい悍ましい歴史があったことはあまりご存じではなかったかと思います。 キリスト教の信徒でさえ詳しいことは知らされていません。 プロテスタント教会では、少なくとも私の教会ではこのような話しは全く出てきません。 なぜなら、皆さんは平和や平安を求めて教会に集まって来ている方々ばかりで、このような信仰故の戦いは触れたくないのが本音でしょう。
聖書によれば『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。』(マタイ福音書10章34節)とイエスさまは言われました。 まさに戦国のキリシタンは死をも恐れない悪との戦いでした。 殉教者だけではなく、潜伏キリシタンも、やむなく棄教させられた信徒も、皆んな戦ったのです。 自分の十字架を背負って生き抜き、永遠の命を得たのです。 マタイによる福音書10章38〜39節にこのように記されています。
『自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。』
THE END

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花に慰められて・・・カタクリ・シバザクラ

2018/04/07 15:11
この一週間最悪、気分がさえないので花に慰めを求めて、しばしのコーヒーブレークとしましょう !!

<カタクリの花>
ちょっと遅すぎましたが3月24日の誕生花はカタクリの花花言葉は「初恋」「寂しさに耐えるだそうです。
うつむいて咲く花の姿から、恥じらいにより自分の気持ちをうまく伝えられない、せつない初恋の気持ち、うつむいてじっと寂しさに耐える姿を連想したものであるといわれます。 
せつない初恋をしている人、寂しさにじっと耐えている人、この花を見ればきっと我慢できるよ !!
原産地は日本や朝鮮半島で、昔はこの球根から抽出したデンプンを片栗粉として食用にしていました。
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我が家のカタクリ(すこしづつ増えています)

<シバザクラ>
シバザクラは桜に似た花を芝生のように広がって咲かせるので、芝桜(しばざくら)と呼ばれるようになりました。 
花の色はピンク色や白色や赤色や紫色でそれぞれ濃い色、淡い色があり、草原一面に咲く姿は見事なものです。
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             我が家の芝桜 と 群馬県太田市北公園の芝桜
<花言葉>
いろいろな色がある芝桜の花言葉も色とりどりです。
青色や白色系のシバザクラの花言葉は、静かに燃える炎を連想し「燃える恋」「煌(きら)めく愛」と言われます。
小さな花が密集して咲き誇る様子から、「一致」「合意」という花言葉もあります。
またその性質から寒くても乾燥した土地でも、地面に這いつくばるすごい繁殖力で花を咲かせるので『耐え忍ぶ』と言った感じの花言葉があります。 また「忍耐」「一筋」「希望」「誠実な愛」と言うような言葉もあります。
このような性質から 芝桜=厳しい環境に負けない、小さくても強いと言ったイメージが持たれるようになりました。 
我が家の芝桜も根っ子はスギナ(今はつくし)に占領されていますが、この時期には春を謳歌しています。実に強いです。
<4月8日の誕生花です>です。 それぞれ贈る人に合った言葉を使ってお祝いしてあげるといいですね。

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長崎キリシタン巡礼の旅E・・・長崎教会編

2018/04/07 10:33
今日は順不同となりますが、旅の締めくくりとして訪問した長崎の教会並びに施設を紹介したいと思います。 3月18日早朝より平和公園を訪れた後、高台から見下ろした所にある浦上天主堂を訪ねることにした。
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浦上天主堂
浦上は幕末にキリシタン3000人超が摘発され全国各地に流刑される事件があったところ。(1865年、浦上四番崩れという) 1873年明治政府によってキリシタン禁教令が解かれた後、信徒達が30年の月日を費やし1925年に天主堂を創建した。 残念ながら1945年の原爆投下によって破壊された。 現在の天守堂は1959年に再建されたもの。
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原爆による破壊 (天主堂石垣跡 と 焼けただれた聖人石像)
浦上は原爆の爆心地から500mと近く、 原爆の日、一瞬のうちに爆風で崩壊し、火災で屋根と床の可燃物は焼失し、聖堂、司祭館などは堂壁の一部を残して敷地内にあった聖人像などの石像もほとんどが大破した。.
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     天守堂内とミサ            信仰の碑と外人観光客
天守堂内に入ると大勢の信徒の方々が着席されており、係の人に聞いてみるとミサが始まるとのこと。 たまたま入ったのだが、ミサの始まる5分前だったので良かった。 昨年来一度カトリック教会のミサに参加したいと願っていたのがようやく実現した。 式次第とか全く分からないままではあったが1時間の祈りのひと時を持つことが出来て良かった。 われわれの教会ではあまり感じられない静かで清らかな賛美に唱和、霊的な雰囲気・・・素晴らしい体験ができて嬉しい。 ミサが終わって外に出ると外人観光客で溢れかえっていたのには驚いた。 
 
画像浦上キリシタン資料館
浦上天主堂から松山町駅の方に下って行くと間もなく、浦上キリシタン資料館がある。 ここでは浦上でのキリシタンの摘発、島流しが行われた(浦上崩れ)時の貴重な資料や原爆の被害に関する史料や絵画なども展示されている。
    浦上四番崩れの説明パネル
   (検挙の状況や流刑地の状況など)
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後で知り合いから頂いた情報では、浦上四番崩れは明治政府によるキリシタン弾圧の一環であり、非差別部落民であった浦上のキリシタン一村が西日本各地に流配されたという悲劇だったと云うことです。
               原爆の絵 と 止まった時計
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聖フィリッポ西坂教会
すでにご紹介したように聖フィリッポ教会は26聖人記念碑の隣に建つ教会で、26聖人の一人、メキシコ人聖フィリッポ・デヘススに捧げた記念堂である。 聖堂上に天高く力強くそびえ立つ双塔やモザイク、穿たれた窓など、今井兼次氏の深い想いが込められた代表作である。 今井氏はアントニオ・ガウディの研究者でスペインのサグラダ・ファミリア教会を思わせる日本では珍しい教会ある。
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カトリック中町教会
画像大村藩蔵屋敷跡
聖フィリッポ教会を出て、中町方面に向かって下っていくと約10分ぐらいで中町教会に着く。中町教会は殉教の歴史をもつこの地に、キリシタン大名であった大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡である現在地に教会設立の仕事に取りかかり、6年の月日をかけて明治30年(1897年)に完成した。 しかし、昭和20年(1945年)8月9日の原爆投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。 昭和26年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建され現在に至っているが、外観を見る限りあまりにも美しくどっしりとした姿に原爆の被害があったとは思えない素晴らしい教会だ。 特にイエスの生涯とマリアが描かれたステンドグラスは素晴らしい。

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<大浦天守堂&まとめ編へ続く>






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長崎キリシタン巡礼の旅D・・・26聖人殉教編

2018/03/30 18:28
今日は2018年3月30日金曜日、奇しくもイエス・キリストの受難の日を覚え祈る日です。
長崎の26聖人殉教の地を訪れたのは3月18日ですが、イエスの十字架での死の苦しみを想いながら、ここ長崎の26聖人の殉教を偲びたいと思います。
画像西坂へ
長崎駅を出て北方向へ5、6分歩けば緩やかな坂道があり、そこを上り詰めると広い西坂公園に着く。
イエスが処刑されたゴルゴダの丘に似た小高い丘で殉教者が希望したと言われている。 その丘からは長崎の街や港が一望できる場所であった。 殉教記念碑の前は広い広場になっており、ベンチでしばらく想いに耽る。
  <二十六聖人殉教の足跡>
これまでホームページなどで折に触れ書いてきたが、ここでも少し補足しておきたいと思います。
キリシタン弾圧と迫害の歴史は1587年の豊臣秀吉のバテレン追放に始まった。 全国のキリシタンはザビエルのキリスト教伝来以来50年にして30万人を突破したと言われるほど一大勢力に発展した。 しかしながら、時の権力者はこれを良しとせず、むしろ恐れを持つようになり、キリシタンの弾圧と迫害によってキリシタンの撲滅を図ろうとする。
時に国家統一を図った豊臣秀吉は大胆にも1597年長崎の西坂の丘にて外国の司祭や伝道師の6名と日本人のキリシタン20名、計26名の公開処刑を断行し、遺体は八十日間に亙って十字架上に曝されました。 大坂、京都で活動していた者を捕らえ、わざわざ長崎まで連行し公開処刑した理由は、明らかにキリシタンの多い長崎の庶民への見せしめであった事は容易に推測できる。
秀吉は直接家臣に、捕らえたキリシタンの鼻と耳を削ぎ、市中引き回し、京都・大坂から長崎まで900kmの道のりを歩かせ最後は十字架の磔の刑に処する残虐卑劣な暴挙に出た。 イエズス会宣教師のフロイスは当時の秀吉について「強欲で悪知恵に長けた暴君」と記し、「キリスト教義上の悪魔」と評した。
この殉教者の中には12歳、13歳、14歳の少年3名も含まれていたが、彼らは死をも恐れず、『感謝の賛歌』〕を歌いながら天国に召されたと記されています。  以下、写真に説明や感想をまじえながらご紹介したいと思います。

          26聖人殉教記念碑 と 聖フィリッポ西坂教会
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<聖人殉教」記念碑>列聖100年祭を記念して、1962年(昭和37)、高さ5.6m・幅17mの御影石の台座に、二十六聖人等身大のブロンズ像を配した記念碑が建立されました。 「昇天のいのり」とも言われています。(彫刻家・舟越保武氏の作)
<聖フィリッポ教会>記念碑の隣に建つ聖フィリッポ教会は、26聖人の一人、メキシコ人聖フィリッポ・デヘススに捧げた記念堂で、上記の殉教記念碑(レリーフ)ならびに記念館(史料館)と共に建立されました。力強く天にそびえ立つ双塔の一方は、神からの、お恵み、罪の赦しを招き受け入れ、片方は、庶民の、願い、感謝、賛美、奉献が、天に、神に、とどくように、突き出ています。塔には、庶民生活を表す、置物や、食器のかけらが張り回されています。 (以上、長崎観光情報サイト参照)
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               十字の上部 と 十字の下部
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十字上部の言葉は良く判りません。 
十字下部には「マルコによる福音書8章34節」が刻まれています。
『人若し我に従はんと欲せば 己を捨て十字架をとりて我に従ふべし』

                       記念碑裏面 と 葡萄の模様
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 記念碑裏側を見ると、「長崎への道」と題した今井兼次さんが制作したレリーフがあります。 全体は、二十六聖人が歩いた京都から大坂・堺、長崎までの長く苦しい道のりを現しています。 その中に丸い石で出来たブドウの房が描かれています。 これは、十字架にかけられた26人の尊い命を、聖書から引用した葡萄の実に例えているそうです。
             26聖人記念館 と ローマ法王巡礼記念碑
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26聖人記念碑の裏側に回ると記念館があります。 建物は聖フィリッポ西坂教会と同じ建築家・今井兼次氏によるものです。 その入り口には1982年にローマ法王パウロ二世が巡礼で来られた時の記念碑が建てられています。
            中央展示室(1F) と 栄光の間(2F)
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展示室内には、ザビエルによる日本でのキリスト教布教から、弾圧の時代、そしてその中での二十六聖人の殉教、潜伏キリシタンの祈りから明治時代の信仰の復活までの歴史が、多数の資料をつうじて紹介されています。
                26聖人殉教の絵
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ガラス越しで良く見えませんが、処刑の様子を描いた絵です。 記念碑では、正装していますが、実際は全員貧しい身なりで、左の耳たぶは全員削がれた姿でした。 横側の絵には船も描かれています。 昔は海が近かったのでしょうか? 外出禁止令が出ていたにも拘わらず4000人もの群衆が詰めかけたとも言われています。 また、ポルトガル船も寄港し、祝砲を放ったとも言われています。 恐らく祝砲ではなく、刑執行者への抗議であったと思います。

神を信じる者はこの世の何をも恐れない。 十字架上のイエスの苦しみを思えばどんな苦しみをも耐えられないことはない。 聖書にあるように『体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。』(マタイによる福音書 10章28節)それ故にどんな拷問を受けようとも死をも恐れず、信仰を守り通した「日本26聖人」は後世に残る尊い殉教者として讃えられている。

<長崎教会編へ続く>





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長崎キリシタン巡礼の旅C・・・長崎原爆編

2018/03/29 11:54
今日(3月18日)朝から1日長崎市内を散策する。キリシタンの話しは後にして先ずは原爆の跡を訪ねることにした。
広島は三度の訪問、長崎も修学旅行含め三度目の訪問であるが、福島原発事故、核戦争も辞さずの現状、もう一度原爆犠牲者のことを想い、何故長崎にまで原爆が投下されたのかをしっかり見ておく必要を感じた。
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・・・・・「願いのゾーン」平和公園・・・・・
画像平和公園エスカレータ
一日乗車券(500円)で乗り放題の路面電車で松山町まで乗車。 駅前の案内に沿って平和公園の方へ少し歩く。
平和公園入口からエスカレーターが動いており楽に高台まで上がることができる。 2012年〜2013年と2年かけて出来上がった。 下段35.6m、上段23m合わせて58.6mと歩く歩道のようになっている。 お蔭で年寄りでも高台まで楽に登れるようになった。
画像平和の泉(長崎市サイトより)
間もなく噴水が噴き上げる「平和の泉」が見えてきます。 そのモニュメントには [あの日のある少女の手記] が書かれています。
のどが渇いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
 原爆のため体内まで焼けただれた被爆者は「水を」「水を」とうめき叫びながら死んでいきました。 その痛ましい霊に水を捧げて、めい福を祈り、あわせて世界恒久平和を祈念するため、核兵器禁止世界平和建設国民会議と長崎市は、全国からの浄財を基として、ここに「平和の泉」が建設されました。
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画像   ↑石畳の道と原爆殉難者の碑
←平和記念像
そして石畳の道の両側に各国から寄贈された平和を祈る像や「原爆殉難者の碑」などを見ながら天高く見上げる「平和記念像」の正面に辿り着く。 

(以下長崎観光連盟サイトより)
長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートル、重さ30トン、青銅製の平和祈念像。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏この像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いが込められた。
毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、 この像の前で平和記念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされます。


平和公園から眼下に少し離れた所に見える「浦上天主堂」へ、そして「浦上キリシタン資料館」など見学しながら「長崎原爆資料館」まで下る。
    
・・・・・「学びのゾーン」原爆資料館入口と館内風景・・・・・
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      原爆ファットマンと吹き飛ばされた浦上天主堂の側壁
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核の悲劇と被爆の悲惨を世界へ訴え続ける長崎原爆資料館。 今の長崎の街並みからは想像しがたい当時の惨状が展示されている。 何万人の命を一瞬にして奪った原爆、今なお原爆症で病める人もいる。
原爆を投下した米国およびその国民までもその非を認めようとしない。 何故広島に続いて長崎だったのか。 キリスト教に縁の深い長崎が何でキリスト教を信ずる国が人を殺し、街を破壊しなければならなかったのか? 私にはいかなる理由も受け入れられない。 外国人の見学者が神妙な顔で見ているがどんな気持ちで見られているのだろうか? 恐らくすべての人が原爆は投下すべきでなかったと思うであろう。 そう願いたい。

・・・・・「祈りのゾーン」原爆公園・・・・・
画像「祈りのゾーン」原爆公園図
原爆投下中心地とされる原爆公園は長崎市で「祈りのゾーン」として聖域化を図り、被爆の史実を伝え、被爆により亡くなられた方々のご冥福を祈る空間として整備されました。
原爆資料館を出てすぐの階段を降りていくと 入口付近に「隈治人の句碑」」Sや「夏の日」Pや「平和を祈る母子像」Nなどの像が並んでいる。更に階段を降りていくと「原爆公園」入口に出る。入口から奥の方に進んで行くと中ほどに「被爆50周年記念事業碑」があり、最奥には「原爆落下中心碑」と「浦上天主堂の遺構」が建っている。
1.追悼電鐵原爆殉難者の碑
2.外国人戦争犠牲者追悼碑
3.福田須磨子詩碑
4.不戦平和之塔
5.電気通信労働者
      原爆被爆者慰霊碑
6.平和を祈る子の像
7.追悼長崎原爆朝鮮人犠牲者
8.桜の記念碑
9.長崎誓いの火
10.秦美穂先生歌碑
11.小山誉美歌碑

12.長崎之原爆詩碑
13.原爆句碑
14.平和
15.平和の母子像
16.反核・平和 育む
17.あの夏の日
18.平和の願いを後世へ
19.PEOPLE AT PEACE
20.隈治人句碑
21.松尾あつゆき 原爆句碑
22.浜口町北部の惨状
23.秋桜子句碑
 
以上の案内地図は長崎市のホームページに掲載されているものです。 詳しく知りたい方はそちらをご覧ください。
ここ祈りのゾーンには被爆により亡くなられた方々のご冥福を祈るため上記のようなモニュメントが沢山建てられています。 それぞれ名高い歌人や俳人、彫刻家たちあるいはそれを寄贈された方々の篤い想いが込められいます。
隈治人の句碑」」S  と  「夏の日」P
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平和を祈る母子像」 と 「原爆落下中心碑
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浦上天主堂の遺構」 と 「被爆50周年記念事業碑
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 戦争によって引き起こされた原爆投下の惨状をつぶさに見てきましたが、もう二度と戦争をしてはいけない、核戦争はやってはいけないと云う「平和へのメッセージ」をいつまでも力強く伝えて行って欲しいと思うばかりです。
余談になりますが、先日、あるテレビ番組で南米のコロンビアからなじみのない日本のことを紹介するために来た撮影クルーたちの密着取材を放送していたのを思い出しました。
彼らは和食や工芸品、その他きれいな街並みなど驚きの連続でしたが、どうしても自国民に伝えたかったのは原爆の街、広島でした。 かって原爆によって焼け野原となった広島がなんとこんなに美しい街になっているとは・・・、また所々に被爆の凄まじさを訴える建造物やモニュメントがきれいに保存されていること。 それだけではなく、ガイドさんの説明で 「水を求めて彷徨う人々を助けるために被爆したその日に水道を復旧させたこと」「親や子、兄弟を探し求める人々を助けるため、3日間で‘チンチン電車’を走らせたこと、しかもそれをやったのは女学生だったこと。」
ガイドさんは ‘それは日本人の気質’ と言われていたが、この話を聞いて彼らは勿論、本国でテレビを見た人たちも涙して泣いた様子が映し出されていた。 広島が驚くほど早く復旧した謎がこれで理解できたようだ。
その背景には52年に渡る左翼ゲリラとの内戦がようやく昨年2017年に終結し、これからの国の復旧と平和を望む国民の願いが日本の今日の姿をみて感動されたのではないでしょうか。

若い人にはなじみがないでしょうがこの歌を聞いてください。
    ⇒「原爆を許すまじ・・・」
 

<26聖人の殉教編へ続く>
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長崎キリシタン巡礼の旅B・・・長崎外海編

2018/03/27 11:34
諌早で2泊し今日(3月17日)もレンタカーで長崎市外海(そとみ)方面のキリシタン史跡を巡ることにする。 事前に訪問したい史跡や地図は調べ尽くしていたが、大村や島原でもそうであったが、ここでもなかなか場所が見つからずとんでもないところまで行ってしまった。 結局、西彼杵半島の外海を北上し西海市の中浦ジュリアンの里へ、そしてハウステンボスを横目に見ながら長崎空港まで、大村湾を一周するというとんでもないドライブとなってしまった。

画像長崎外海地図
長崎外海は1571年外人宣教師が布教を始め、15教会、5000人の信徒がいたが、キリシタン弾圧によって潜伏するか、安住の地を求めて海を渡って五島列島へ移住することとなった。 現在の教会や施設は明治のキリシタン解禁になってからド・ロ神父と地元の信徒達によって建てられたものである。
出津文化村の中には入口近くに沈黙の碑、外海歴史民俗資料館、カトリック出津教会、ド・ロ神父記念館などの施設があり、キリシタンの足跡を辿りながらしばし散策する。
画像カトリック黒崎教会
明治30年(1897年)にド・ロ神父の指導によって敷地が造成され、大正9年に(1920年)に教会が完成。聖堂は信徒によって積み上げたレンガ造りが美しい。 聖堂に入ると土曜日にも拘らずミサが始まっていた。 農漁村の小さな集落と思うが、ミサの出席者は4〜50人はおられたであろうか、しっかり信仰心が受け継がれているように思う。 会堂はリブ・ヴォールト天井に、ステンドグラスが印象的だった。
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     カトリック出津(しつ)教会
1882年、ド・ロ神父が、風の強い斜面の台地に、私財を投じて建てた質実剛健な教会である。
主構造は煉瓦れんが造りで、煉瓦の表面を漆喰で塗っている。 天井は、中央部をわずかにむくらせた平天井。 屋根は海からの強風をさけ低くされ、瓦の目地は漆喰で固められている。 そのため建物全体が白く、白亜の教会である。 また塔の上に聖母像を置いている教会堂は日本では珍しく、この聖母像は、ド・ロ神父がフランスから取り寄せたそうです。
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     ド・ロ神父記念館(長崎市広報より)
ド・ロ神父はキリスト教弾圧の最中、1868年(明治元年)に死をも覚悟して 来日し、長崎や横浜で数々の功績を残した人でした。 1879年(明治12年)、外海地区の主任司祭となり布教活動とともに、フランスで学んだ建築・医学・産業など の幅広い分野の知識を活かし、「隣人を自分のように愛しなさい」というキリスト教の教えを実践。宗教を礎とした深い人類愛で、外海の人々のために力を注 ぎ、一度も母国へ帰ることなく、1914年(大正3年)に享年74歳で逝去しました。 ド・ロ神父記念館は、神父の遺徳をしのび、すばらしい業績を顕彰するために設けられました。

画像大野教会
1599年大野地区に平戸領から逃れて来たキリシタンが住み着いたと言われている。1893年ド・ロ神父が私財を投じて26戸の信者と力を合わせ、大野教会を完成させた。民家を思わせるような教会で、現地の石を積み上げた外壁は、独特の風合いを醸し出している。ド・ロ神父の建築技法が典型的に表れている教会として、2008年に国の重要文化財に指定された。
                  中浦ジュリアン像とその顕彰碑
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                  ジュリアン記念公園とローマ法王謁見絵
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天正遣欧使節の副使としてヨーロッパに派遣されたジュリアンの里、ここ西海市中浦南郷に記念公園が造られた。
中浦ジュリアンは大村純忠の家臣の子、使節団として成功して帰国したが、キリシタン禁制の中、司祭に叙階し、20年間潜伏布教したが1632年投獄され翌年長崎で穴づり処刑される。 処刑場にて「私はローマを見た中浦神父である」と言い殉死する。2007年に福者に列せられた。(64歳?)
          遠藤周作文学館
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 小説『沈黙』の舞台となった長崎外海地区のほぼ入口付近、東シナ海を臨み、はるか彼方に五島列島が見渡せる素晴らしいロケーションに建つ遠藤周作文学館がある。 館内には遠藤周作の遺品、生原稿などの展示があり、特に小説「沈黙」の解説パネルの展示があり、遠藤ファンにはたまらない。「沈黙」という題名になった理由を改めて知った。「神は沈黙しているのではなく、語っている」「歴史上で沈黙させられた人たちに人生を語らせる」という意味が込められているのだ。
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沈黙の碑
遠藤周作文学館から少し離れた高台にある出津文化村の入り口からすぐの場所に「沈黙の碑」が建てられている。
外海を舞台に描かれた『沈黙』、その一節にある『人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりに碧いのです』と刻まれている。
この碑の後方には、青い海と遠藤周作文学館を望むことができる。 なんと青い空に青い海、静かで美しい。

幕府の厳しい弾圧と迫害によって、逃げまどいながら大村や島原、長崎などの各地から秘境の地へ、ここでも安住の地とはならず、密かに身を隠して信仰を持ち続けたキリシタン、その想いはいかばかりであったろうか。 私たちは誰もが「なぜ神は沈黙したもうのか」と思う。 しかし、遠藤氏は200年以上に渡って沈黙させられた隠れキリシタン達のことを思い小説に描かれたのだ。
この遠藤周作の想いが昨年封切られた映画「沈黙」によって世の中に示され、人々の心を揺り動かすこととなった。
映画監督のマーティン・スコセッシ氏のオフィシャルインタビューに「江戸時代初期を舞台にキリシタン弾圧を描いた『沈黙』を、現代において映画化する意義」を次のように言っています。
(展示パネルより)
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<長崎原爆編へ続く>
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長崎キリシタン巡礼の旅A・・・雲仙・島原編

2018/03/24 11:23
今日(3月16日)は諌早から時計廻りに海沿いに島原市、南島原市、そして雲仙へとほぼ島原半島を半周するコースの長距離ドライブとなる。 朝から雨、どんよりした寒い日となった。風も強く有明海沿いの道路は高波で水しぶきが飛んできて怖いほど。 雲仙地獄では煮えたぎる噴煙と寒さに震えあがり、挙句の果ては帰り道を見失ってしまって同じ道を行ったり来たりの辛い一日でした。
  
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 戦国時代の島原地図とキリシタンの歴史
1563年島原にもキリスト教が伝来した。大村純忠の弟に当たる有馬義直もキリシタン大名となり、口ノ津に教会を建て修道士を招き布教活動が進められ南蛮貿易と共に繁栄を極めた。さらにヴァリニャーノ宣教師の布教方針によって島原半島はキリスト教の一大中心地となり、領民のほとんどがキリシタンとなった。
1580年有馬のセミナリヨ(神学校)が建てられ、天正遣欧少年使節達が育てられた。
間もなく豊臣秀吉の「バテレン追放令」が発せられたが、島原ではむしろ盛んになり領民7万5千人が信者となった。1614年家康の禁教令によりキリシタンの弾圧が始まる。新領主となった松倉重政は島原城を築き、キリシタン弾圧を行い、教会を破壊し、信徒に改宗を迫る。雲仙地獄はその拷問と刑場の場となり、極めて惨酷な刑で33名の信徒が殉教した。
その後、島原藩の貿易が不振となり財政悪化し農民の年貢取り立てを厳しくしたため、領民は苦しめられ不満が高まっていった。
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          キリシタン殉教碑と雲仙地獄
1637年ついに領民が立ち上がり農民一揆・島原の乱が始まった。天草でも立ち上がり、16歳の天草四郎を総大将としに両者連合して原城に立てこもった。その数2万7千とも3万7千人とも言われている。 3ヶ月に及ぶ攻防が続いたが、強大な幕府軍に圧倒され遂に老若男女全員が虐殺されるという痛ましい事件となった。
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                              原城跡と天草四郎銅像
有馬キリシタン遺産記念館と遺産品
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天草・島原の乱の原因は重税に苦しむ農民一揆にキリシタンが加味したと言われていますが、どうだったのでしょう? 反乱軍から幕府軍に飛ばされた矢文には、キリシタン弾圧に対する抗議があり、農民の圧政に対する抗議もあり、いずれにしろ領民のほとんどがキリシタンでしたから殉教覚悟の幕府に対する訴えであったと思われます。
一揆の後、法外な年貢の取り立てで一揆が起こった罪を問われて島原藩主は斬首、天草領は没収、領内は無人化となりその後の復興は大変なものとなりました。 
島原の乱にてキリシタンに恐怖を抱いた幕府はキリシタン禁制を強化し200年以上に渡り沈黙の時を迎えるに至ったのです。
                                                <長崎外海編へ続く>
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長崎キリシタン巡礼の旅@・・・大村編

2018/03/22 11:38
今年もレント(受難節)にあわせて長崎周辺のキリシタン弾圧と迫害の跡を訪ねて想いを新たにする。(3月15〜19日)
現在の長崎県大村市は戦国時代の大村藩が横瀬浦を開港(1562年)して南蛮貿易を始め、藩主の大村純忠はキリシタン大名となり領民もすべてキリシタンとなり6万人に達し、南蛮貿易と共にキリスト教も全盛時代を極めた。
しかし、豊臣秀吉が天下統一するや1587年バテレン追放令を発し、キリシタン弾圧と迫害へ、更に徳川幕府の禁教令(1614年)以後キリシタンの徹底した取締りによって絶滅の悲しい歴史をたどることとなった。遺跡の大半はその凄まじい迫害の歴史を語るものであった。                                 大村市観光案内
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画像3月15日、長崎空港からレンタカーを借り大村市のキリシタン史跡巡りに出かける。 空港前の簑島大橋を渡ると大村市の玄関口、そこに天正遣欧少年使節団の顕彰碑が建てられている。1582年わずか13歳の少年達4名がキリシタン大名の名代として欧州に派遣され西洋文明の見聞を深め将来を嘱望される人材として帰国したが、残念ながら1590年に帰国した時には秀吉によるキリシタン禁制により弾圧と迫害を受け悲運の生涯を送ることとなった。
(詳細’17年11月11日既報参照)

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放虎原殉教地(郡崩れ)
1657年大村藩郡村の潜伏キリシタン603人が捕らえられ406人が打ち首、牢死78人、永牢20人、赦免99人であった。
131人がここ放虎原で処刑された。

画像画像妻子別れの石
郡崩れの受刑者たちが家族と最後の別れを惜しみ、殉教地に引かれていった。
涙で濡れた石は今でもコケが生えないと言われている。
周辺の現在の墓碑は先祖代々の墓となっており、キリスト教式の墓は皆無のようであった。
画像獄門所跡
放虎原で処刑された131人の首は塩漬けにされ、見せしめのため長崎街道のこの場所で20日間さらし首にされた。
その後、胴体と首は別々の場所に埋められた。 キリシタンは死後甦るといわれ首と胴体を切り離して別の場所に埋められた。 
現在、首塚、胴塚として長崎街道(県道34号線)沿いに碑が建てられているが見当たらなかった。
このような残忍な処刑は島原の乱に恐れをなした幕府の徹底したキリシタン撲滅のためであったと思われる。
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鈴田牢跡
1617年から5年間、外国人の宣教師ら30人が閉じ込められていた牢屋跡。 
ここから発信した神父の手紙によって当時の日本の状況が伝えられ、世界中に鈴田牢の名が知れ渡った。

このような幕府の厳しい弾圧と迫害によって、難を逃れたキリシタンたちは長崎外海方面さらには五島列島へと渡り潜伏し、大村藩のキリシタンはほぼ壊滅するに至ったようだ。 
                                 <雲仙・島原編へ続く>
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信頼される大人、 どこまでも寄り添える大人に・・・。

2018/03/12 10:24
スマホが今や文明の利器として、老若男女問わず生活必需品となろうとしている。 スマホを持てない我々は時代について行けそうにない。 ただ、それをうまく使いこなしてこそで、今まで経験できなかったことが体験でき、今まで知らなかった世界をしることができ、そして孤独な人生から抜け出し人の輪へ仲間入りができるようになる。 
でも、新聞テレビで無残な事件が頻繁に報道されているのはスマホが絡んだ事件だ。
昨年の「座間事件」、「死にたいので一緒に死ねる方募集します」とメールしたばっかりに見知らぬ男が近づきうまい話で引き付け、最後はシリアルキラーとなり、遺体をバラバラにして葬り去る。 こんなニュースを聞きながらもなお同じ犯人の犠牲になって行くことに驚きを隠せません。

元厚生労働省障害保健福祉部局長であった村木厚子氏は2009年、郵便不正事件で大阪地検特捜部に逮捕され、のちに無罪判決を勝ち取って事務次官に就任された有名な方、そのことで「悲劇のヒロイン」として扱われていることを村木さんは、悩みを抱える少女や若い女性と支援者をつなげる「若草プロジェクト」の代表として呼びかけている。

時代の証言者(読売新聞連載)2018年2月27日 第24回の記事に
『貧困、虐待、孤独など生きづらさを抱えた少女たちに寄り添う「若草プロジェクト」。 試行錯誤しながら活動を続けています。・・・(中略)・・・それに、私たち大人が頑張らなければならない理由があります。支援者に言われたのです。少女たちはいわゆる「立派な大人」が苦手で、そうした大人は自分たちが抱かえる心の闇や葛藤はわからないと思っている。 だから彼女たちが相談したいと思えるような信頼される大人になってください、そうした大人を育てください、と。 信頼され、声をかけられる大人をたくさん増やしたいと、研修活動を行っています。…(中略)・・・各支援団体をつなぐことや、少女たちが直面している課題を社会に広く知らせることは、人脈や人生経験が豊富な「枯れ草」チームの得意な分野。 我々の出番だと思っています。一晩、二晩、彼女たちが安心して心も体も休めることが出来る若草ハウスを作る決断もしました。 大きな挑戦ですが実現したい。
少女たちを通して、社会の様々な歪みが見えてきます。薬物依存の背景を探っていくと、性暴力から逃げるための薬だったり、無理に中毒にさせられた結果の薬だったりする。 犯罪者より被害者と呼んだ方がふさわしいと感じる時もあります。 こうした現実に目を背けない大人でありたいと思っています。


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別れは辛くても また会う日まで・・・

2018/03/01 13:56
3月はお別れの季節、でもまだ高校、大学の入試もこれからという人もおられるから少し早すぎるかも・・・。
それが終われば卒業式でお別れの時が来る。 親しい仲間との別れ、遠くに行ってしまうともなれば辛い別れに・・・。
サラリーマン人生も出張、転勤、単身赴任、海外へまで、家族と別れ別れの寂しい辛い日々もありなん。

我輩も何度も海外に出ることがあった。 成田から日本を飛び立つ時、再び帰ってこれるだろうか、子供たちが見送りに来てくれた時など涙が出るほどつらかったことを思い出す。

忘れもしない40年ぐらい前の思い出、こんな出張はめったにないドラマのような海外出張だったので記録に残しておきたい。 それがなんとまだ冷戦時代の旧ソ連のナホトカへの出張であった。 横浜港から2泊3日の船旅だ。 
当日になってもまだビザが下りていない。 しかし、今日の船に乗らなければ来年まで船がない。 上司の判断で、悪いけど横浜まで行って欲しい、もしビザが下りれば貿易会社の担当者が港まで届ける手配をしたという。 
幸い出航ぎりぎりの時間になって、やっとの思いで貿易の人がビザを届けてくれた。
船はソ連船籍のバイカル号、5000トン級のそれほど大きくない外国航路の定期船である。 当時は日本からヨーロッパ各国に留学する学生が利用していた。 また、ヨーロッパからの観光客など、ナホトカ経由シベリヤ鉄道で一週間かけての旅である。 時間がある人はこのルートが安くて学生には好評であった。

港には大勢の見送りの人が、手に手にテープを持って、「Bon Voyage 」(ご無事で、良い旅を)とテープが切れるまで別れを惜しむ。
小生は独りぼっちの旅立ち、みんなが別れを惜しむ姿が羨ましかった。 昼過ぎに横浜を出て、その夜津軽海峡を通り荒海の日本海に出る。 船は大きく揺れテーブルのコップなどは左右に動くほどだ。 こんな状態で一昼夜何も見えない海原を漂う。 初日にテーブル囲んで一緒に食事をした人が、その後一向に食事に来なくなった。 心配でウエートレスに部屋まで果物でも差し入れしてほしいと頼んだら、案の定、船酔いがひどくて外に出られなかったそうだ。
ナホトカ近くになると写真撮影は一切カット、すぐ近くに軍港のウラジオストックがあるからだ。 ナホトカにも機関銃を持った兵士が見張っている。 やはり冷戦下、日本の戦前を思わせる張り詰めた空気が漂っていた。
外気温がマイナス20℃の厳冬の中、無事プロジェクトをフィニッシュし、今年の横浜行き最終便に間に合い、クリスマスイブを船中でみんなと祝うことができた。

こんな無事に帰れた出張はまだましだ。 1ヶ月以上も足止め食っていながら家にも連絡できないで家族に心配かけたこともあった。
人生、様々な別れと出会いを経験しながら、見知らぬ世界へ羽ばたいてゆかなければならない。
「神ともにいまして 行く道をまもり・・・」の讃美歌によっていつも励まされている。

      讃美歌はこちら⇒讃美歌21−465番『 神ともにいまして 』
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受験生の皆さんへエールを送る

2018/02/16 11:14
受験の季節到来です。
巷では当ったの落ちたの言葉が飛び交う嫌な季節です。本当に受験生の皆さんお疲れ様です。
     最後の最後まで諦めずに頑張ってください!!
ところで、20年も前の話しですが、私の娘が高校の受験生だった時の話しです。
あまり勉強をしなかった娘ですが、志望校を決めるにあたって第1志望校にするか第2志望校にするか迷ったが先生の勧めで推薦入学で入れる第2の志望校に決めたそうです。 ところがその後、自分より出来が悪いと思っていた友達が第1志望校を受験すると聞いて発奮し、推薦校をキャンセルすると先生に申し出たそうです。 その時、担任の先生曰く「お前みたいな成績で第1志望校なんかに受かるわけないじゃん」とこっぴどく叱られたそうだ。
それでも彼女は諦めず、お正月返上で猛烈な勉強を始めた。わずか2ヶ月ほどの追い込みであったが、その甲斐あって見事第1志望校に合格した。 先生が見込んでいた別の友達2人は何故か落ちてしまったそうだ。 先生曰く「お前みたいな者が受かったから他の子が弾かれたのだと・・・」
何という先生なのだろう。 私も子供任せであったが、このような心ない先生もいることを初めて知った。
まだまだこれからの人生、不安を抱え、傷つきやすいデリケートな年ごろ、なんで優しい言葉がかけられないのだろうか。 どんな生徒にも良くも悪くもまずはねぎらってやり、励まし諦めずに希望を持たせることを教えるのが先生ではないのだろうか・・・。
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「幸せを招く」福寿草・・・開花しました。

2018/02/09 09:50
厳しい冬も峠を越えそうです。今年はひと際寒い日が続いたので、開花も遅れるかと思っていましたが、そんな中、福寿草が早くも膨らみ花開いてくれました。
福寿草の花言葉は字のごとく『幸せを招く』で、厳しい寒さを耐えて、陽光をいっぱい受けながら咲いています。
花に教えられることいっぱいあります。 厳しい環境の中で、じっと耐えて春が来るのを待ち望んでいます。
私たちも辛い現実の中でも、じっとこらえて春が来るのを待ち望みましょう !!

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1月16日生まれの誕生花
 遅まきながら、1月16日生まれの方、お誕生日おめでとうございます。
この日の誕生の人は、勤勉で努力家だそうです。 そして何事もコツコツ積み上げてその結果もたらされる達成感や幸福感を大切にする人柄は素晴らしいです。 幸せ掴みとってください。 祈っています。
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心温まる人の優しさ

2018/01/26 17:12
改めて人の優しさ、思いやりを感じさせていただきました。
当方パソコンについてはWordやPowerPointなどの使い方は一応マスターしており、まあまあの出来なので人に頼られますが、ソフトやハードとなれば用語すら分からないズブの素人です。
今回、80歳過ぎの知り合いから、突然メールが出来なくなったので見て欲しいとの依頼を受け、さっそくチェックさせていただいたが、どうしても復帰できず、M社の電話サービスで対応していただくことになった。
ところが、若干耳が遠いこともありなかなか聞き取りにくく何度も聞きなおしたり、また、自分のパソコンとは違う画面が出て来て指示通りの操作がなかなかできず、右往左往しながらの対応であった。それでも根気よく丁寧にあれこれ指示していただきようやく問題点を把握していただいた。その対策のためその担当者に電話を繋いで頂いたが、混んでいて改めて依頼者本人に電話を頂くことになった。
その夜、依頼者から電話あり、問題が解決したと大喜びであった。別の担当者であったが、その方も親切に対応してくれたそうです。依頼者の方いわく
「私は人様にこんなに親切にしたことがあるだろうかと思うほど親切に教えてくださいました。」とのこと。

ビジネスとは言え、これほどまでにとことん付き合ってくれる人は今までになかったし、日常の生活の中でも厄介な事は避けるし、近寄らないし、見て見ぬふりをしてしまう人がほとんどの世の中、ほんとうに心温まる経験をさせて頂きました。
「人づくり革命」とか大げさな事が言われていますが、もっと身近なところからこのような「人づくり」をするべきではないでしょうか !!
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雲竜渓谷の氷瀑・・・墨絵のような世界

2018/01/19 14:16
今年はひと際寒い日が続き年寄りには応えます。
寒くても山の魅力には勝てず、若かりし頃はよく出かけたものです。 ただ、冬山は天気が急変することがあることを肝に銘じておく必要があります。 今年はまだ遭難事故が少ないように思いますが、冬山を決して甘く見てはなりません。
 怖さを知りながらも、それでも冬ならではの自然が織りなす雪と氷の世界に魅せられて出かけたくなります。 ある程度訓練と経験を積んで冬山も楽しめると良いですね。
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今日は思い出の冬山の芸術とでもいえる氷瀑をご紹介したいと思います。
日光の雲竜渓谷の氷瀑です。 国道119号線より日光山輪王寺宝物殿横(東)の道を稲荷川に沿って北上し林道ゲートに駐車。 駐車場は5台程度で土日は途中の林道に路肩駐車可で20台程度、それがだめならもっと手前の滝尾神社の駐車場が20台程度可能です。道は細く積雪のため運転は容易ではないので適当な場所があればそこで諦めた方が良いかも。(ただ10年ほど前の話しなので今はどこまで車が入れるのか要調査)
我々は平日だったのでゲート手前の路肩で駐車して出発する。
緩やかな登り坂を約1時間半ぐらいで洞門岩に着く。 川コースと山コースに分かれるが、川コースの方が近道。 ただ途中で3〜4回ほど川の渡渉があり水量が多い時は渡渉は無理。道は所々凍結しているため軽アイゼンが必要。 30分ほど行くと雲竜渓谷入口に着き目の前に様々な模様を描く氷瀑が見られる。
雪道なので余裕を見て往きは2時間半〜3時間、帰りは2時間程度で慣れない人にはちょっときついかも。
氷瀑のスケールの大きさ、様々な模様の氷の世界が墨絵のように広がる。 感動ものである。
比較的軽微な装備で行けるところではあるが、初めての人は経験者に同行することが望ましい。
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新年明けましておめでとうございます。

2018/01/05 05:25
「新年明けましておめでとうございます。」
 年を取ればとるほど新年はお目出たくはならなくなりますね。 また、一つ年を取ってしまいました。そんなこと言ってないで老体に鞭打って頑張りたいと思います。
 新年を迎えるにあたって、新たな夢と希望を抱き、そのために身も心も改める、心機一転やり直すつもりで忍耐と勇気をもって歩みたいと思います。

 さて、新年にふさわしい聖書の言葉は何だろうと考えていたら次の聖書の箇所が思い浮かんできました。ご紹介しましょう。         
新約聖書 マタイによる福音書9章16〜17節
 『新しいぶどう酒は、新しい革袋に』

 『だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。
新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする。 』


 読んで字のごとくですので詳しい説明は省略しますが、聖書が言っていることは、
新しい「神の言葉」を受け入れるには、また本当の「命」を頂きたいならば、新しい「器」としての「想い」「心」を新たにしなければならないと云うことでしょう!
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フラリーマン ガンバレ!

2017/12/26 10:39
 フラリーマンなる言葉、初めて聞いたが今朝のTVニュースで面白おかしく取り上げられていた。
今に始まったことではないらしいが、昨年安倍内閣で閣議決定した「働き方改革」なる経済対策の一つで長時間労働の抑制を決めた結果、残業ができなくなったサラリーマンが退社しても家に帰らず「漫画喫茶」や「ゲーセン」、「パチンコ」、「バッティングセンター」などあまりお金がかからない所をフラフラさまよい歩き、飲むのも缶ビールで立ち飲みする程度。飲食やショッピングなどへの経済効果は何処へやら。
 家に帰れば良いのにと思うが、どうやら家に帰っても父ちゃんの居場所がないらしい。家に帰ってもやることがない。家事ができない、嫌いだ。一家を養っているのに邪魔扱いされ、やるせない。
 我々退職組のように家庭を顧みなかった企業戦士が退職してやることがなくなってフラフラ彷徨っている者をフラリーマンと云ったのに、今や若い世代まで言われるようになってしまったようだ。
 フラリーマン・予備軍 ガンバレ せっかく勝ち取った自由な時間、これからの人生・余生を満喫できるよう今からでも遅くはない。夫婦家族の愛の絆を確かなものに、世のため人のために、まだ知らない世界に羽ばたくために・・・、やることいくらでもあるのです。俺には仕事しかないなんて言わないでコツコツやりましょう !! 
 奥様も子供たちも協力して家庭改革をしましょう !!。(元企業戦士、今自由な爺より)
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クリスマスは静かに迎えるもの・・・。

2017/12/21 05:14
 クリスマスが近づいた。中国の話しはさておき、日本のクリスマスはいかがなもんじゃ?
 12月ともなれば、クリスマスセール、クリスマスパーティ、クリスマスコンサート、クリスマスイヴと騒がしい日がやって来る。子供たちにとってはクリスマスプレゼントにクリスマスケーキと楽しみが待っている。
 ハロインにしろ、クリスマスにしろその意味合いも良く判らずによくもまあ欧米の文化が抵抗もなく定着したものだと感心する。とりもなおさず商業ベースにまんまと乗せられたものだ。少しは経済にプラス、生活に潤いを与えられているので是でもなく非でもないが、是とするべきか・・・。
 平和ボケしたお姉さんに、「教会でもクリスマスやるんですか?」と言われ唖然としたはなし、確かに教会では12月に入れば、イエスさまが再び来られる日を待ち望むアドベント即ち待降節に入り、4週間心静かに過ごすことになるのだ。2000年以上も前のはなし、打ちひしがれたユダヤの人たちが救世主の誕生を待ち望んだように・・・。

 しかしここで昨年の今頃、M教会の牧師が語られたメッセージを思い出したので書き留めておきたい。
 救世主の誕生を噂に聞いた当時の王様、ヘロデ王はもしも救世主が誕生したならば将来の自分の地位が危ないと思い不安を抱きました。そして司祭や律法学者を集めて、その救世主イエスはどこに生れるのかを問い正し、ベツレヘムだと知って、そこで生れた赤子を皆殺しにするよう命令しました。イエスの誕生によってこんな恐ろしい事が起こっていたのです。聖書に書かれているイエスさまの生涯は正に弱者救済の生涯でした。なぜここまで徹底して弱い者の味方をされたのでしょうか? なぜこれほど優しい気持ちを持ち続けられたのでしょうか?
牧師いわく「イエスはこの出来事を知っておられたのだろうか。きっと知っておられたに違いないと思う。自分が生まれたために殺された、無辜なる子どもたちがいたこと、その家族の悲しみがあったことを…。そしてそのことを自分の責務のように感じながら心を育てていかれたのではないかと思うのだ。」「喜びのその陰で泣いている人がいる・・・そのことを見つめるもうひとつのまなざしをも自らの内に忘れることなく、歩みを重ねてゆきたい。」と締めくくられた。

 ちょっと脱線したようですが、とにかくクリスマスは楽しみどころか静かにアドベント(待降節)を過ごすこと・・・と、肝に銘じて過ごしています。

 
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クリスマス禁じます・・・西洋文化の浸食阻止?

2017/12/19 15:22
 今日の読売新聞、大きな見出しが出ていました。何事があったのだろうとその記事を読んでみていささか滑稽に思うと同時に他の記事と読み合わせると中国政府の言論統制がいよいよ信教の自由束縛にまで及んできそうな気配を感じる。
 中国瀋陽市にある瀋陽薬科大学で、クリスマスに関するイベントを禁止する通達が出されたと云うこと。同大学の青年組織「共産主義青年団」の委員会の通達「祝祭日は国家や民族の歴史と文化を象徴するものであって、西洋の宗教文化の浸食を阻止するために校内でのクリスマス関連行事を禁ずる」とした。
 これに対し中国の著名な人権活動家、胡佳氏は「中国共産党がキリスト教徒の増加に警戒感を強めている」との見方を示した。
 中国政府は庶民の生活の自由は認めるが、言論の自由、特に共産党政権に異論を唱える人達の自由は与えられていない。口封じが徹底し見掛け上は国民も納得しているように見える。しかし、インターネットやTVなど検閲され問題あれば封じ込めるのに躍起となっている。
 こと信教の自由についても警戒感を持ち始めたようだ。 
 日本の戦国時代に国家権力を固守すべく、急増し始めたキリシタンに対して禁教令を出し、過酷な弾圧と迫害を強いたように、その内中国もキリスト教禁止令を出すことになるのではないのか・・・。
 今や中国は巨大な経済力を武器にアジアにおける国際会議やフォーラムで中国独自の価値観を国際社会に浸透させようと躍起になっている。 「中国が力を持てば周囲がなびき、価値観を変えられると・・・」、この近隣のアジア諸国まで中国流の価値観に汚染されてしまいそう。そうならないよう日本は何をなすべきか? そう遠くない問題なのだ!

 新約聖書 マタイによる福音書 10章26節

        
『人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。』


私たちはいくら国家権力であろうとも、どんな力であろうとも、隠そう潰そうとしても真実は何時かは明るみに出ることを知っている。
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「人づくり革命」って、革命なの?・・・

2017/12/06 09:18
 幼児教育、高等教育の無償化を柱とした安倍内閣の看板政策「人づくり革命」に2兆円、これは単なる消費税増税分のバラマキ政策ではないのか! どうして「革命」なる言葉が使われるのか? 人づくりにどんな秘策が、どんな改革が盛り込まれるのか? 増税をして、しかも借金も先送りしてこちらに予算を回すことにしただけではないのか?
 「革命」と言えば「フランス革命」「ロシア革命」「文化大革命」、あるいは「産業革命」「流通革命」「IT革命」などが思い浮かぶように政治や産業、技術などの一大変革があった時に使われる言葉だと思う。 軽々しく「革命」なる言葉を使ってもらいたくはない。 あの失言暴言、スキャンダルだらけの政治家たちの幼稚さからこんな言葉がまかり通るのではないのか。 
 「人づくり」とは何か、新しいシステムの導入や意識改革などの手法によって人材を発掘し育てること。お金をバラマク、予算を付けることは単なる低所得者への支援ではないのか。その支援方法が全く革命的だと言えるのか。

 本気になってやらなければならないのは大人たちの「人づくり革命」ではないのか!
国を背負って立つ政治家達の意識改革、公僕たるべき役人達の再教育、それこそ人づくりの責任を担う教育者達の資質改革・・・等によってこそ子供達への「人づくり改革」が出来るのではないだろうか。
 我々民間の企業では熾烈な競争に勝ち抜くために、どの企業も「人づくり」から始めたと思う。 日本の企業が世界に誇る企業に成長したのはこの「人づくり」によること間違いなし。
 「人づくり」のロードマップをしっかり創って、それに見合う予算が付けられることには異議はない。
 大事なことを抜きにして看板だけ掲げるのはもうやめて欲しいと切に訴える。 

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久しく待ちにし 主よとく来たりて・・・旧讃美歌94番

2017/12/03 15:15
 今日から主を待ち望むアドベント、待降節第一主日を迎え、燭台の1本のロウソクに火が燈されました。
 イスラルの民は栄華を極めた時代もありましたが、国を奪われ神殿を破壊され、奴隷や囚われの身となり様々な苦しみを味わってきました。 そんな苦難の中、救世主が来ることを切に待ち望んでいました。

『主が、あなたがたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日が来る。
そのとき、あなたはバビロンの王に対して、この嘲りの歌をうたう。』
(旧約聖書:イザヤ諸4章3〜4節)

 私たちは今どうでしょう。昔のような切実な苦しみはなくともいつも不安にかられるています。
 いつ再び戦争が起きるかしれない、いつ大地震や自然災害が起こるかしれない、いつ残虐な事件、事故に巻き込まれるかしれない、いつ身近な人あるいは自分の身に病魔が死が襲ってくるかしれない・・・。
  どうかこのような不安に駆られている私たちをお守りください。 私たちを一人にしないで下さい。 主がいつも私たちと共にいてくださり、来たるべき日まで平安の日々を過ごさせてください。

旧讃美歌 94番「待降」

久しく待ちにし 主よとく来たりて、
み民のなわめを 解き放ちたまえ。
主よ主よ、み民を 救わせたまえや。

あしたの星なる 主よ、とく来たりて、
お暗きこの世に み光をたまえ。 
主よ主よ、み民を 救わせたまえや。

メロディはこちらからどうぞ⇒ https://youtu.be/1jxc9ef2efE 
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神ともにいまして行く道を守り・・・讃美歌465番

2017/11/17 11:49
 お別れの時、寂しい想いがあります。 そんな時、この讃美歌「神ともにいまして・・・」を歌い慰められます。 「また会う日まで神さまのお恵みがありますように!・・・」 と。

神ともにいまして ゆく道をまもり、 日ごとのの糧もて つねに支えたまえ。
また会う日まで、また会う日まで、 神のめぐみ たえせず共にあれ。

荒れ野をゆくときも、あらし吹くときも、 ゆくてをしめして 導きたまえ、主よ。
また会う日まで、また会う日まで、 神のめぐみ たえせず共にあれ。

み国に入る日まで いつくしみひろき みつばさのかげに はぐくみたまえ、主よ。
また会う日まで、また会う日まで、 神のめぐみ たえせず共にあれ。

  
メロディはこちら(You Tube)⇒https://youtu.be/M6DDVCia38k 
 
  
新約聖書 マタイによる福音書 28章20節

  『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』
 

                 
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悲劇の天正遣欧少年使節たちの運命

2017/11/11 15:50
 11月9日NHKのBS放送で『悲劇のキリシタン弾圧・・・大人になった天正遣欧使節の決断』と題する話題が取り上げられていました。 かって、五島列島を訪ねた際、キリシタンの迫害や弾圧の悲劇について思い知らされたが、遣欧使節団の少年たちが派遣されたことは知っていましたが、その後のことはあまり知りませんでしたので、改めてここにその運命について知ることとなりました。

 戦国の乱世の最中、奇しくもフランシスコ・ザビエルが初めて日本にキリスト教を伝え、南蛮貿易と共に目まぐるしい勢いで広まっていきました。(キリシタン人口:1581年15万人、1600年30万人、1614年37万人と言われている)
 当時の宣教師ヴァリニャーノは日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること、また日本の少年たちにキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを自ら語らせることにより、布教に役立てたいという思惑によって使節団を派遣することになりました。
 当時13歳前後の少年たち4名はそれぞれ成功を収めていたキリシタン大名の名代として選ばれた将来を嘱望された少年達でした。
 1582年2月長崎を出発して2年半、ポルトガルに着き、スペイン、イタリアとそれぞれの国の国王に歓待され、教皇にも謁見することが出来、使節としての目的を十二分に発揮できました。 1年と8ヶ月の滞在を経て、日本に帰国したのが1590年の7月、実に8年5か月の月日が経っていました。
 
 その間に1587年豊臣秀吉のバテレン追放令が出され、キリシタン弾圧が始まり、1597年には長崎における26聖人が処刑されると言う悲劇がありました。 更に、1603年徳川幕府となり、家康の禁教令、2代目将軍秀忠による元和の大殉教が全国に広がり(1615年〜)、何百名というキリシタンが処刑される事態となりました。

 少年達はすでに20歳を過ぎていましたが、帰国後、イエズス会に入会し、その後10年間、司祭になるために勉強に励み、一人を除いて3名は司祭となり、弾圧の最中、信徒組織の統率、布教活動の傍ら洋書の翻訳や出版活動にも携わっていました。

 将来を嘱望された少年達の運命は、戦国乱世の為政者たちによって翻弄された悲しい運命であった。一人は謎の棄教、一人は病気による早死、一人は国外追放、一人は潜伏宣教20年、捕縛され何度も拷問を受け棄教を迫られたが信仰を捨てず、最後は穴刷りの刑による殉教であった。
 
 弾圧の理由は何だったのか? これほどまでに大名のみならず庶民のキリシタンをも全滅するまでに追い込んだ理由は何なのか?  一国の、一為政者の安泰のために、人の命が軽んじられる世の中はいつの時代も同じなのか・・・。

使節団の顔ぶれ
伊東マンショ(主席正使)1569年頃〜1612年 大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。(43歳?)
千々石ミゲル(正使)1569年〜? 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後に棄教。晩年不祥
中浦ジュリアン(副使)1569年頃〜1633年 大村純忠の家臣の子、司祭に叙階。20年潜伏布教、1632年投獄、1633年長崎で穴づり処刑。処刑場にて「私はローマを見た中浦神父である」と言い殉死する。2007年に福者に列せられる。(64歳?)
原マルティノ(副使)1569年頃〜1629年 大村純忠家臣の子、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。(60歳)





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初冠雪の紅葉・・・立山黒部

2017/11/04 11:41
 ちょっと遅すぎましたが、忘れ得ぬ紅葉の絶景を思い出したので記録しておきたいと思います。
今から10年ほど前の10月20日前後、毎年恒例となっていた6人兄弟夫婦の山歩き、この時は立山黒部の旅でした。
 立山天狗荘に2泊して、天狗平から弥陀ヶ原、地獄谷、雷沢、みくりが池、室堂平、天狗平へ戻る上りの多い山歩きで年寄りには大変なコースでした。
画像剣岳を望む
 天狗平の山荘で着替えをし、出発。 間もなく良く晴れた秋の空、天高く聳える剣岳が目の前に現れました。お山はもう紅葉が過ぎているようでしたが、青空に堂々と立っている姿に感動です。お山はお天気がなりよりです。
画像靄にけぶる弥陀ヶ原
 天狗平、弥陀ヶ原を散策、紅葉真っ盛り、靄にけぶる素晴らしい紅葉が見られました。
画像地獄谷
 やがて噴煙にけぶる地獄谷に到着。 その上の方に岩なのか紅葉している木なのか、間違いなく紅葉だと思える赤く染まったものが見えました。
画像
画像
雷沢からミクリヶ池へ
 雷沢あたりから急登です。今日は初冠雪の日となりました。紅葉も見られ雪景色も見られると言うラッキーな日となりました。 ただ、雪の山道は滑るので大変でした。
 
画像ミクリヶ池
 雪山に映えるミクリヶ池とてもきれい。 ミクリヶ池には温泉施設があり、みんなでひと風呂浴びて疲れをとり、また元気をだして室堂を経て出発地の天狗平まで自由行動で帰ることにしました。 近くの山に登る者、雷鳥を捜しに散策するものそれぞれでした。
画像天狗平での夕日
 西の山々が雲海に沈む中、荘厳な夕日を撮ることが出来ました。
 この夜は山荘のオーナーとビデオを見ながら素晴らしい話を聞かせてくれました。それはオーナーの息子さんがまだ小学生にも拘らず、親の背中を見ながら、立山周辺の山々を踏破し、来年には富士山に登ると言う親子の強い絆を語ってくれました。
画像画像画像画像

黒部平の紅葉
 室堂からバスやロープウエイを乗り継いで黒部平につく。 素晴らしい紅葉の絶景が待っていた。
黒部ダム
 黒部湖の周辺も紅葉の真っ盛り。 ダムの高台に登ってしばし物思いに耽る。
 
 これまで長野や北海道の山々を歩き、ハワイまで出かけることもあった。 兄弟みんな達者で山歩きが好きだった。特に妹夫婦は山男山女と言われるほどで、いつもこの旅の計画から手配まで引き受けてくれたおかげで楽しい思い出を作ってくれた。 あれから10年しか経たないのにみんなすっかり足が弱り、旅は続けられなくなってしまったのはやむを得ないことと思う今日この頃である。


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本末転倒の「髪染め強要」・・・不登校生の訴え

2017/10/30 13:08
 生まれつき茶色の髪の毛の高校生が、学校から黒く染めるようにと強要され、精神的な苦痛や差別で不登校になり、いつの間にか退学扱いにされていた。
中学でもこのような指導を受けたので、母親は学校側に配慮を求めていたと言う。それにも拘らず、学校側はしつこく黒染めを強要したため、それに従ったものの頭皮はかぶれ、髪もボロボロになったと言う。生徒は昨年の9月、先生から「黒染めしないなら学校に来る必要はない」と言われ、それ以降は不登校となり、今年4月から退学になってしまったと言う。
もって生まれた髪の毛をわざわざ染めたりするものではないと言って禁止しているにもかかわらず、黒色に染めろ! と言うのは本末転倒ではないのか? 
いろんな生徒がいるので規律を守らせるのは容易なことではないと思うが、子供の人権や個性まで無視して、すべて同じような姿や色に染め上げることは如何なものか?

ここで我が家の娘もこれと同じ目にあったことがあるのでひと言代弁しておくことにする。
我が家での子供たちの教育はほとんど妻任せにしていたので自分に言う資格はないのだが、妻と娘に代って申し上げておきたい。
次女が公立高校に入学しほっとしたところ、どうやら規律に厳しい学校のようであった。制服のスカートの丈は?ルーズソックスは・・・と指導され、やはり茶髪は厳禁とのことであった。娘も高校生ともなればもっと自由に伸び伸びとできるものと思っていたので非常に残念がった。まもなく、超ミニスカートにルーズソックスという流行りの最先端を行くようになり、先生の指導を受けるようになった。それにもまして、前述の高校生のように、生まれつきの茶髪に近い髪の毛だったので、先生のチェックが厳しく何度も指導される始末であったそうだ。それにめげず自分の考えを押し通す強い子であったのでそれ以上のことはなかったが悔しい思いを何度もしたそうだ。 母親に対しては別に不良じみたことをやっている訳でもなく、一生に一度しかない高校生活をエンジョイしたいだけだと言っていたそうだ。
 そのやり取りの中で父親としての自分は「もっとまじめに勉強しろ!」と言うばかりであったが、さすが母親は「娘は自分のやっていることは十分承知の上でやっているのであって、私は信じてあげる。」と口癖のように言っていたことを思い出す。
今、その娘も一児の母親になった。子育てに夢中だ。どんなにか子供がかわいいのか・・・、毎日のように赤ちゃんの動画をメールで送ってくる。婆ば(ばあば)の今の唯一の楽しみとなっている。

新約聖書 ルカによる福音書 6章43節
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。」

子供を信じて育てること、これが親であり、教育者ではないのではなかろうか。

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讃美歌・・・「神はわがやぐら」

2017/10/23 16:27
 ひと休みしましょう! 讃美歌 「神はわがやぐら」です。

神はわがやぐら わがつよき盾、
苦しめるときの 近きたすけぞ、
おのが力 おのが知恵を たのみとせる
よみの長も  などおそるべき。

いかに強くとも いかでか頼まん、
やがては朽つべき  人のちからを、
われと共に 戦いたもう イエス君こそ
万軍の主なる あまつ大神。
 

メロディはこちら(You Tube)⇒ https://youtu.be/h_xbYi7k0a0

旧約聖書 詩編46章2〜6節

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。 
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、湧き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。 
大河とその流れは、神の都に喜びを与える
いと高きか神のいます聖所に。
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。



 
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台風一過の選挙結果をどう思う?・・・。

2017/10/23 16:01
選挙戦一過が台風一過になってしまったようだ。 今日の深夜、目が覚めてしまったので選挙結果でも見ようかと、のこのこ起きてテレビをつけたら、いつもならバンザーイ、バンザーイのオンパレードのはずがいつまでたっても台風情報に明け暮れていた。 あちこちで川が増水氾濫し、助けを求める人々、濁流に呑まれて必死に木にしがみついている人、救助隊が肩まで水につかりながらゴムボートで助け出そうとしている光景、土砂崩れで道路はズタズタ、家も車も田畑も水浸し、こんな光景を目の当たりにして、ほんとうに選挙どころではない現実に情けない思いをした。
 皮肉にも、自民の大勝というか、選挙前と全く変わらない議席を確保したことに驚くばかりである。
 閣僚の重なる暴言失言に加え、森友学園や加計学園の疑惑問題などで内閣支持率が下がり、安倍内閣としては対北朝鮮への対応、消費税増税の使途変更を持ち出して、国民に信を問う選挙に打って出ることになった。 その結果が吉(?)と出た。 
 大儀なき総選挙、税の無駄使いと言われた選挙であったが、野党の結束力のなさもあり、国民がこのような審判を下したのだから認めざるを得ない。 増税もやむ無しか、財政赤字も将来へ先送りもやむ無しか? その場しのぎの政策ではなく、きちんと将来を見据えた政策を打ち出し、国民の付託に応えて行く政治をやって欲しい。 国の最高機関である国会がスキャンダラスなことばかりで何一つ決まらないような国会になって欲しくない。 このような繰り返しではギリシャのような財政破綻に追い込まれてしまうのではないか? 決してスキャンダルのみそぎは出来たと思わないで欲しい。
 今大事なことは何か、東日本大地震の大津波、それによる福島原発が取り返しもつかない事態になってしまったこと。 ある程度予測していたにもかかわらず抜本的な対策が講じられていなかったことが禍根を残すことになった。 近じか南海トラフト巨大地震が起こると予測されるがその対応策も遅々として進んでいない。 
 安定政権に期待が寄せられ、株も50何年ぶりに高値を更新したと言われる。 その裏では1988年のブラックマンデーから30年、世界を震撼させる大暴落が近じか起こるのではないかと心配されている。 そのようなことも何とかしのげたとしても、北朝鮮の暴発を引き起こし、核戦争に至ってしまったらそれこそ日本は壊滅してしまう。 こんな思いは取り越し苦労であって欲しい。 少なくとも子供たちや孫たちの将来を奪うようなことだけは何としてでも防がなくてはならない。
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世界にはこんな立派な大統領がいた!

2017/10/17 06:09
 「世界一貧乏な大統領」の話画像
 日本の政治に嘆いてばかりであるが、こんな時、ふと昨年訪日された前ウルグアイ大統領のことを思い出した。日本とは国の規模や歴史、政治形態は大きく違ってはいるが、政治家の政治姿勢はいずれの国であっても比較に値するものであって見習うべきものと思う。
 これは昨年〈2016年〉の4月来日された前ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカ氏のこと、『世界一貧乏な大統領』と言われたムヒカ氏のことである。一昨年大統領は辞任したがまだ国会議員として活躍されていると聞く。
 彼は青年時代に極左武装組織でゲリラ活動に従事し、逮捕され、約13年間の獄中生活を送った経歴を持つ人物である。 大統領時代は『私は貧乏ではない。質素なだけです』『貧乏とは、欲が多すぎて満足できない人のことです』と言った。 ムヒカ大統領は官邸には住まず、妻が所有する小さな農場の質素な家に住み続けた。移動には大統領専用車は使わず、古い愛車を自らハンドルを握り、携帯電話も古いもの、自転車は60年間も持ち続けたという。 贅沢とは物を沢山持つこと、お金を沢山貯えることではなく、すべて自分の持っているものに満足し、誇りをもって大事にすることだと・・・。 『もし、少ししか物を持っていなければ、その物を守るための時間も少しで済みます』『もし、私がお金を貯めることを目的にしたら、お金が盗まれる心配をしなければならないし、お金を隠した穴を埋めて回らなければならなくなります』
 贅沢な生活をすれば余計なことに神経を使い、無駄な時間を取られ、煩わしさも伴ってくる。それこそ自分で好きなことに使う自由な時間を、家族や友人と過ごす自由な時間を奪ってしまう。
 大統領の給料は約131万円であったが、その90%は慈善事業と所属政党へ寄付、残りの10%は将来、貧しい子供たちを受け入れる農学校をつくるための貯金である。 生活費は妻の収入で賄い質素な生活であった。

 彼はキリスト教徒ではなかったけれど、その人生哲学は、それこそ、聖書にある『天に富を積む』行いであったことに驚く。  イエスが弟子達に語った『山上の垂訓』と言われる新約聖書の一部を紹介したい。 

新約聖書マタイによる福音書6章19〜21節

『あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは虫が食ったり、錆び付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は天に積みなさい。そこでは虫が食うことも、錆び付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ』


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選ばられし者、党利党略ではなく国民のために!

2017/10/17 05:09
 衆院選も中盤になり新聞テレビでは演説合戦で賑やかなことだが、わが田舎町では選挙カーなど1台も来ないし、町は静かなものだ。 と言うことは我々のようなちっちゃな個人はどうでもよくて、大まかな票の獲得でで国政の方向が決まってしまうということなのだろう。
 衆院選の争点の一つに、教育の無償化、その財源となる消費税の増税の賛否が問われている。 とりわけ、「幼児教育、保育の全面無償化」のための財源確保が必要、そんなことより、以前から問題となっている待機児童ゼロ化のための保育所や保育士の確保が先決ではないのか? また、高等教育の無償化は本当に必要なのか、家庭の事情で進学を諦める若者を救いたいという。 しかし、タダで高校や大学に行けるならバカでもチョンでも遊ぶために進学する若者が増えるだけだ。 真に将来国のために働いてくれる者を支援し、出世払いをしてもらえるような人材でなくては国税を使ってもらいたくないというのが人情だ。
 消費税増税分の使い方を問う選挙と大げさなことになっているが、所詮有権者へのリップサービスに過ぎないのではなかろうか・・・。 
 政治に関してはいつも不平不満になってしまう。 一国の舵取りはそう簡単にはいかない、1億何千万の総国民を満足させる施策などあり得ないことは重々承知している。 ただ、今回のような政権が行き詰った末の大儀なき解散総選挙はやって欲しくはない。 もっと国がかかえる難題ならもっと真剣に将来を見据えた政策を練り議論した上で、国民の審判を受けるべきだ。 
 党利党略のためにではなく、真に国民のため、地域のために身を粉にして働く人が国会に出ていって欲しいと願うばかりである。
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本当に国を守り抜くことができるのか?

2017/10/09 15:56
 突然に降って湧いた総選挙、昨日は党首討論会で盛り上がっているかに見えるが、我々庶民には何のための選挙かよく見えてこない。大義名分のない解散総選挙で始まったが、昨日の党首討論会では憲法改正に増税是非の論戦になってしまっている。
 政治も経済もずぶの素人ながら、ひとこと言わずにおられない。
 このまま、どの党が勝とうとも大勢からみれば憲法第9条の改正に至ってしまいそうだ。また、税のあり方使い方の見通しがつかないまま国の借金地獄に追い込まれそうな気がする。
 まず、今の国際情勢即ち北朝鮮の核の脅威に対して、安部総理が言うように本当に国を守り抜くことができるのか?憲法改正で自衛隊の強化、安保体制の強化で国を守ることができると言っているように思えてならないのだ。再び戦争に至れば我が国は壊滅するであろうし、戦争に至らなくても、軍事費の増強で借金地獄に拍車がかかるであろう。 もうこれ以上トランプ大統領の言いなりにならず、北朝鮮との対立は避けるべし、憲法も自衛隊も安保も今のままが良いのではなかろうか・・・。
 かっての消費税増税において、社会保障と税の一体改革や財政健全化が叫ばれたにも拘わらず遅々として進んでいない。アベノミクス効果で経済界の景気は順調と言いながらも庶民の生活はちっとも良くなっていない。こんな状況の中で増税の是非など我々に問われても答えられる訳がない。税のあり方について消費税のみならず、所得税や法人税含めて将来どうあるべきかを根本的に見直すべきだ。さらに、税の使い方において依然としてやまない税の無駄使いをいかに無くすかを考えるべきだ。
 党利党略に縛られず、国民のために滅私奉公のできる使命感と責任感のある人材が現れることを期待したい。
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どうにも止まらない・・・政治不信

2017/09/27 17:10
 25日の安倍総理の記者会見にて、衆議院解散表明がなされ、その真意が問われている。
9/26(火) 朝日新聞1面の座標軸に「国の最高法規に背を向け、国権の最高機関を軽んじ、・・・憲法あれどもなきがごとし・・・」と書かれているように、問題だらけのこの解散表明に国民の誰しも納得がいかない。
議員の任期も1年を残し、また解散理由となっている「消費税の使い道の変更」における消費税増税も2年も先のこと、まして北朝鮮問題が緊迫している最中、政治空白となっても急いで国民の信を問わなければならないことがあるのか?
 森友学園や加計学園の問題が政治不信を招き、都議会選挙で惨敗したにも拘わらず、ここでまた大義名分のない解散劇は明らかに国民の政治不信に輪をかけるようなものである。
 安部総理のトランプ大統領一辺倒の北朝鮮対応、国際舞台でいかにもリーダーシップをとっているかのようだ。もっと慎重に行動すべきだ。
 トランプ大統領がかかえる国内問題から目をそらし、北朝鮮との対決姿勢で国民を結束させようとする意図は、安倍総理も同じように思えてならない。 国政に行き詰まり、外に目を向けさせ危機感をあおっている。 北朝鮮の核の脅威に対して、本当に国民を守ることができるのか、アメリカと共に行動すれば危機に陥るのはわが国だということが分からないのか、危機が避けられても軍備費が重なるばかりで、社会保障どころではなくなるのは目に見えている。
 安部総理のこの愚かな決断の真意は何なのか、国民は今度こそ目を開き、リンカーンじゃないが「国民の、国民による、国民のための政治」となるようこれからの政治を我々の手に取り戻さねばならないのだ。
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人は塵より生まれ、塵に帰る

2017/09/27 12:08
      旧約聖書 詩編第90編3節〜12節

 主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。  山々が生まれる前から
 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神。

 あなたは人を塵に返し  「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
 千年といえども御目には  昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
 あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。
 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れて行きます。

 あなたの怒りにわたしたちは絶え入り  あなたの憤りに恐れます。
 あなたはわたしたちの罪を御前に 隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り 人生はため息のように消えうせます。
 人生の年月は七十年程のものです。  健やかな人が八十年を数えても
 得るところは労苦と災いにすぎません。  瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
 御怒りの力を誰が知りえましょうか。  あなたを畏れ敬うにつれて
 あなたの憤りをも知ることでしょう。 生涯の日を正しく数えるように教えてください。
 知恵ある心を得ることができますように。

 昨日、教友の一人が亡くなりました。病魔はアッ〜という間に彼の命を奪ってしまいました。こんな時私たちは何を思えば良いのでしょう?
 モーセの詩である詩編90編をもう一度読んでみました。
 詩編では「人を塵に返す」のは神で「人の子よ、帰れ」と神から一言あれば、人の生命はそこで終わりです。ただ、なぜ彼なのか、なぜ今なのか家族にも、私たちにも分からず戸惑いを隠せません。
 神が仰せのように私たちは「塵より生まれ、塵に帰る存在」だということです。その人生も「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べに枯れてしまう」儚い存在なのです。
 死は神の怒りなんでしょうか? 死を見つめることによって、私たちは「あなたを畏れ敬い、あなたの憤りを知ること、生涯の日々を正しく数え、知恵ある心を得ることができますように」・・・と祈るばかりです。

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